なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

節句

 私の住んでいるとことは、秦野市鶴巻南です。秦野市は大山から富士山の方向に続く丹沢山塊にそって

横に長い地域です。小田急の駅は、秦野市だけで4つあります。新宿に近いほうから鶴巻温泉東海大学

前、秦野、渋沢の4っつです。新宿方面の秦野市の隣は伊勢原市です。その伊勢原市に比々多神社という

古い神社があります。昨日は節句で、連れ合いも私も一日鶴巻にいましたので、久しぶりに神社の節句

風景を観に二人で散歩に出ました。以前散歩中に出会ったこの地域に昔から住んでいるらしいお年寄りの

方から、比々多神社の節句はこの辺では有名だと聞いたからです。

 私の住んでいるマンションから伊勢原に向かうと、すぎに田んぼが続く田園地帯になります。そこから

は少し山頂部分がまだらに白くなった大山が左手真正面に見えます。右手は平地で平塚に続きます。左手

の山側に小田急の線路があり、さらに山側には246の道路があり、その更に山側に高架になっている東

名道路があります。田んぼを中を横切っている自動車も通れる道路をしばらく歩きてから、左に曲がり小

田急の踏切を渡って246の比々多の交差点に出て、そこをまっすぐ山に向かって進むと東名の硬化した

トンネルに出ます。そのトンネルをまっすぐ突っ切って、しばらくして右側の道路を少し歩くと比々多神

社があります。

 マンションを出て、ゆっくり歩いて40~50分で比々多神社に到着しました。豆まきは10時、12時、15時

の3回行われます。私たちが神社に到着したのが、12時少し前でしたが、しばらくすると袴をつけた男性

と数名のきらびやかな着物を着た女性が、神殿に入り、そこで儀式をして、それが終わると、赤鬼と青鬼

の装束を来た二人の人が観衆の人の群れの中にやってきて、みんなはその鬼に向かって豆をまきました。

神殿で儀式にあずかっていた人たちは町や企業の方のようで、その方々とは別に社務所からお相撲さんと

歌手の方が数名出てきて一緒になり、それぞれ手に景品の抽選権の入った紙包みの入った升を手にもち、

神殿の横に作られた舞台の上に勢ぞろいしました。代表の挨拶があってから、豆まきが行われました。お

昼時で学校があり、子供が少なかったので、混乱もなく、観衆は舞台の上からまかれた紙包みを、空中で

手でキャッチする者、帽子を差し出す者、地面におちたのを拾う者など、案外落ち着いた対応でした。

その光景を見て、私たちは神社を後にしました。

 この比々多神社の歴史は相当古むまで遡るようです。神社の出しているパンフレット(と言っても、無

料で誰でも自由にとれるものではなく、売店の巫女さんから100円を出してもらったものです。その中の

「由緒」の最初にこう書いてありました。

 <比々多神社の歴史は大変古く、神社境内地・近隣より発掘出土した遺跡遺物などから推測すると、当社

の淵源は今から一万年以上前まで遡れる。論より証拠、発掘された縄文時代中期の環状配石(スト-ンサー

クル)の「立石(メンヒール)」こそ祭祀遺跡であり御神体であり、原初的な神社の信仰の指標を現わして

いる。/「社伝記」(天保五年・1834年)によると、御鎮座は初代神武天皇六年(紀元前655年)、人々が

古くから祭祀の行われている当地を最上の地と選定、神を祀る社を建立し、相模國の霊峰大山を神体山とし、

豊國主尊を日本國霊として祀ったことに始まるという>。

 比々多神社の節句の風景を観て感じたことは、まだこの地域には村落共同体的な心性の残滓が、この地

域に昔から住んでいる人々の中には強くあるということです。節句のような昔ながらの伝統文化とみなと

みらい地区などで日常的に行われているイベント祭りとが混載した状況の中で、さて私たちはどこに向かっ

て浮遊していくのでしょうか。