エレミヤ書36章27~32節 2018年6月24日(日)船越教会礼拝説教
・先程司会者に読んでいただいたエレミヤ書36章27節には、《バルクがエレミヤの口述に従ったこれらの言葉を
書き記した巻物を王が燃やした後に、・・・》と記されています。まずそのことを、前回触れました今日の箇所
の前の記事から、振り返っておきたいと思います。
・36章の21節、22節には、ユダの王ヨヤキムは、巻物をユディが《王と王に仕えるすべての役人が聞いていると
ころで読み上げた》時、《ユディが3、4欄読み終わるごとに、・・・巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にく
べ、ついに、巻物すべてを燃やしてしまった》と記されています。巻物を破り、それをすべて燃やすことによっ
て、ヨヤキム王はエレミヤの預言である神の言葉を拒むと共に、それを消し去ろうとしたわけです。
・なぜヨヤキム王は、巻物を破り、それをすべて燃やしてしまったのでしょうか。それは、巻物に記されていた
エレミヤの預言(神の言葉)が、ヨヤキム王にとっては聞くに堪えない言葉だったからに違いありません。
・最初にこの巻物が編纂された目的は、神に背き、滅びの道を歩いているユダの国の王とその民を、神の民とし
て神との契約に従った彼ら・彼女らの本来あゆむべき道に立ち帰らせることでした。36章の3節に、《ユダの家
は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そう
れば、わたしは彼らの罪と咎を赦す》とある通りです。
・しかし、ヨヤキム王は、巻物を破り、それを火にくべて燃やすことによって、まさにそのことを拒絶したので
す。ヨヤキムは王でありましたから、ユダの国の民の指導者でした。神の言葉に対するヨヤキム王の拒絶はユダ
の国の民全体を巻き込んで、ユダの国の民も王と共に神の言葉を拒絶し、滅びの道を突き進んでいくことになり
ます。
・この事態に直面して預言者エレミヤは失望したに違いありません。しかもヨヤキム王はエレミヤとバルクを人
を遣わせて捕えようとした(26節)と言うのですから、自分の身の危険も感じたと思われます。
・けれども、王が巻物を燃やした後、主の言葉がエレミヤに臨んだと言って、28節以下にこのように記されてい
るのであります。
・第一に、エレミヤは、同じ内容の別の新しい巻物を燃やされた巻物の代わりとせよとの神の指示を受けます。
≪「改めて、別の巻物を取れ。ユダの王ヨヤキムが燃やした初めの巻物に記されていたすべての言葉を、元ど
おりに書き記せ・・・」≫(28節)と。そのことは、神の言葉は人間の手によって破棄することはできないこと。
たとえ、神の言葉がこの時、王に対して明らかに効力がないと思われたとしても、後の時代のために、それは
生き生きと保持されていかなければならないということを意味していると思われます。
・第二に、神の言葉を侮辱した王は罰を免れることはできない。神の審判は、神を嘲ったり、あるいは神の計画
を阻止しようとする者に下ると言うのです。≪それゆえ、主はユダの王ヨヤキムについてこう言われる。彼の子
孫には、ダビデの王座につく者がなくなる。ヨヤキムの死体は投げ出されて、昼は炎熱に、夜は霜にさらされる。
わたしは、王とその子孫と家来たちをその咎のゆえに罰する。彼らとエルサレムの住民およびユダの人々に災い
をくだす≫(30,31節)と。
・このことによって、神の言葉を力ずくで押し潰そうとする王の試みが挫折する運命にあることが分かります。
・≪そこで、エレミヤは別の巻物を取って、書記のネリヤの子バルクに渡した。バルクは、ユダの王ヨヤキムが
火に投じた巻物に記されていたすべての言葉を、エレミヤの口述に従って書き記した。また、同じような言葉
を数多く加えた≫(32節)と言うのです。
・今日のエレミヤ書の箇所から私たちが教えられることは、どんなに権力者が預言者を通して語られる神の言葉
をないものにしようとして、それを消し去ろうとしても、神の言葉は決して人の力によっては消し去ることはで
きないという真理ではないかと思います。
・私は今日のエレミヤ書の箇所を読んでいて、戦時下の教会の日本のキリスト者は、このエレミヤの箇所を読
まなかったのだろうか、という思いが頭に浮かびました。エレミヤ書のこの箇所だけではなく、新約聖書のテ
モテの手紙二の2章8節、9節には、このような言葉があります。
・≪イエス・キリストのことを思い越しなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、
死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれ
ています。しかし、神の言葉はつながれません≫と。
・ここにははっきりと、≪神の言葉はつながれません≫と言われています。今日のエレミヤ書の箇所が語って
いることも、このテモテ第二の言葉を同じことです。
・ご存知の方もあるかと思いますが、ナチス・ドイツの時代に、ナチスに抗う告白教会の運動に参加して、8年
間獄中生活をしたマルティン・ニーメラーに、その収容所で語れらた説教が『されど神の言は繋がれたるにあ
らず-ダハウ獄窓説教』(新教出版社、1962)として纏められています。
・そのニーメラーがこのような詩を残しています。
ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。
けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。
けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。
(丸山眞男『現代における人間と政治』)
・古代のユダの国の王国のような場合には、権力者である王がエレミヤの預言が記されている巻物を破り、燃や
して、神の言葉が示す道に逆らって悪の道を歩むことが、明らかに分かったのではないかと思われます。また、
現代でもナチス・ドイツや日本の戦前の天皇制国家のように、全体主的・専制的な国家の場合には、神の言葉が
示す道を外れていることは、目覚めている人にとっては、相当明確に分かったと思われます。もちろん多くの人
々は思想統制によって、教育や暴力に脅されて、その全体主義的・専制的な国家の中に組み込まれて、沈黙の民
にさせられてしまうでしょうが。しかし、現代の欧米や日本のような先進国の一見民主的な社会では、社会シス
テムそのものが悪に染まっているとしても、それがなかなか分からないで、そのシステムの中に私たちは位置づ
けられてしまっていることが多いのではないでしょうか。
・1970年の大阪万博には、万博会場にキリスト教館を建設するかどうかをめぐって、私たちの教会では激しい
論争が起こりました。当時日本の企業が力をつけてきており、大阪万博を契機にアジアへ進出の手掛かりをえ
ようとして、関西経済圏を中心に大阪万博が企画されたわけです。キリスト教は万博会場にキリスト教館を建
てて、万博に来た沢山の人々に伝道するというわけでしたが、そのような伝道はヨーロッパキリスト教の植民
地主義的な伝道と変わらないのではないか。経済侵略の先兵の役割をキリスト教が果たしてよいのかという問
題提起がありました。
・この問題提起は、現在でも日本基督教団の教会全体としては解決していません。その問題提起が続いている
状態だと思われます。福祉の問題はともかく、政治的・社会的な問題へのコミットは望ましくない。教会の第一
義的な使命は、個人の魂の救済である伝道である。一人でも多くの受洗者を出すことだ。そのような考え方です。
そのような教会の伝道は、大きな社会悪を容認しかねません。むしろ既存の社会を前提にしてその中で宗教活動
に徹することによって、その矛盾と問題に満ちた社会をそのまま存続させる力になり兼ねません。アメリカの原
理主義的なキリスト教は正にそのような宗教ではないでしょうか。
・イエスの福音、神の言葉は神の御心にふさわしい主権がこの地上の世界の中でも確立されることを求めます。
神の言葉が肉なたったイエスは、神の国の到来を宣べ伝え、私たち一人一人を神の国の住民に招いています。
・≪イエス・キリストのことを思い越しなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫
で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につ
ながれています。しかし、神の言葉はつながれません≫。
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