なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(383)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(383)復刻版を掲載します。2007年1月のものです。

 今日は、朝からインターネットがつながらず、連れ合いが帰ってからやっとつながりましたので、この

時間になってしまいました。


        黙想と祈りの夕べ通信(383[-18]2007・1・28発行)復刻版


 テレビで富士にある認知症の方のグループホームで働く人の紹介がありました。8人位の入居者に対し

て6人位の20代、30代の働き手のいるグループホームです。その働き手の一人の方が、認知症の方との対

応に悩み共感トレーニングを受けて、その方法を取り入れるようになって、お年寄りに少しずつ笑顔が

戻ってくるようになったというのです。私も教会のお年寄りの方で、長い間老人保健施設や病院にいらっ

しゃる方を、できるだけ見舞うようにしています。しかし、見舞ってもその方が私を認識できない場合も

あるわけです。そんな状態で見舞っても意味が無いのではとおもうこともありますが、私はその方のそば

に寄り添い、その方の魂の叫びを想像して一緒に神さまに祈るようにしています。ある意味で認知症の方

に話しかけ耳を傾ける共感トレーニングと同じことをしているのではないかと思わされています。確かY

牧師も教会に来れなくなり、病院にいらっしゃる方をお見舞いするときに、そばにしばらくそっと寄り添

うようにしているということを、その著書のどこかに書いてあったように思います。クループホームのこ

の働き手の方が、長い間生きてきたお年寄りの方々が人生最後の時を喜んで生きてほしい、そのために力

を尽くしていきたい、とおっしゃっていました。本当にそうだと思いました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。21日~22日と広島で開かれた性差別連絡

会全国会議に出席した。35(合同後20)回教団総会で自分は同性愛者だと言った方も来ていた。被差別部落

出身の方も、女性の同性愛者の方も来ていた。あるレズビアンの方が私が生きている150年位経ったら、

差別はなくなるのかねーとの発言があった。私は即座に聖書がある以上なくならないのでは、と言ってし

まった。総会の時に同性愛者の方から、自分はずっと生きていてはいけない人間で消えてしましたいと

思って来たが、教団の教会に変わって、「生きていていいんだよ」と認められ、支えられて今があると発

言があった後に、自分の教会には同性愛者の牧師は来て欲しくないという発言が会場からあった。その時

それを聞いて、その発言者の近くにいた議員が「死んじゃうよう―」と叫んだという。その時即座に彼に

「そんなことしたら殺すよ!」と言ってしまった人がいた。これは差別発言があったときに、それで傷つ

く人を思い、人を生かそうという人の動きがあったことだと思う。その同性愛者の一人が2月号の福音と

世界に書いているが、たったひとりの人の差別発言が人を殺すことになるだろうし、逆にひとりの人を生

かそうとすることが、差別観を持った人に届いたら、何かが伝わるのではないかと。私も伝えていきた

い。聖書を字面で読むのではなく、聖書の言葉が人を生かす、そういう読み方をみんなと一緒にしていき

たいと思う。

 続いて別の方からの発言がありました。お話を聞いていて、以前属していた教会で、老人ホームに耳の

不自由な教会員を訪ねた時のことを思い出した。はじめは意識がぼんやりしていたその方は、筆談を重ね

るうちに色々と思い出し、見る間に変わっていかれた。外との接触の大切さを感じると同時に、私たちの

することは一瞬であることに複雑な思いを感じた。また、大阪の公園でテント生活をしている方が住民票

をその定住地に登録したという裁判が逆転敗訴した報道をテレビで観た。その方は「裁判官と同じ暮らし

方をしていなければ、人間として生きていると認めてもらえないのか」と語っていた。今、公園生活を選

んでいる女性の本を読んでいる。そこには公園で暮らす人々の優しいコミュニティーがある。本日の聖書

研究で「色々な視点が大切」であると学んだが、色々な生き方を認め合い、色々な視点から物を見られる

方が、世の中がもっと心豊かになるのではないかと思う。