なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(405)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(405)復刻版を掲載します。2007年7月のものです。下記には、現在係

争中の私の戒規免職問題の発端となった、2007年7月常議員会での私の聖餐についての発題への準備のこ

とが記されています。記録も取らない自由な懇談ということでしたこの私の発題が言質にとられて、次回

の常議員会では当時の山北議長から教師退任勧告が出てきたのです。もう7年も前のことです。



       黙想と祈りの夕べ通信(405[-40]2007・7・1発行)復刻版


 7月9-10日に教団の常議員会があります。そこで私は聖餐についての懇談会なるもので発題をすること

になっています。山北教団議長は、教区総会への挨拶の中でも正しい聖礼典の執行ということで、未受洗

者に開かれた聖餐式は教憲教規違反だから、それをしている者には措置をとっていく所存だと記していま

すから、その線で私の発題も捉えているものと思われます。私は常議員会の議事日程で懇談会の性格付け

を問い、発題を引き受けるつもりでいます。1999年3月の教会総会で紅葉坂としては未受洗者に開かれた

聖餐式を教会規則8条削除をもって実践していくことに決めました。その後規則変更届けを教団に出しま

したが、教団からは同意を得られず、変更届けそのものが返戻されています。その時、私も役員会も聖餐

式のことで、私たちの方から教団にアクションを起こすことはしないことにしました。しかし、今回は常

議員資格を問うということで、私個人への教団執行部側からのアクションですので、受けて立つことにし

ました。果たして未受洗者に開かれた聖餐式が教憲教規違反なのかどうかを含めて、そもそも聖餐式とは

何かという本質的な問題まで、出来れば論じたいと思っています。どうなるかわかりませんが、このこと

を覚えて祈りに加えていただければ幸いです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。23日には3箇所自分に関わる会が重なっ

た。行ったのはゴスペルコンサートであった。会堂建築一周年記念としておこなわれたもので、私は招待

されていた。従兄弟がその教会で救われ、今は穏やかな生活をしているので、洗礼式には行ったが、新し

い会堂になってから一度行きたいと思っていたので、ちょうどよい機会であった。そのコンサートは素晴

らしかった。20歳位から60歳位までの方で、バプテスト連盟に所属しテキサスからやってきたという。何

と表現していいのか、分からないくらいの感動だった。歌い終わったとき、拍手で手が痛くなったと思っ

たが、家に帰ったら体が楽になっていた。私が練習している発声とは違うが、どちらも素晴らしいと思

う。

 別の人からの発言がありました。以前からボランティアとして関わっていた会の代表を6月から引き受

けることになった。その会は4年前にNPO法人になった。週2,3回出るので、忙しくしている。そこの会報

に一言と言われて、以下のようなことを書いた。「以前こんな話を聞いたことがあります。車椅子生活の

学生が母親に、毎日友人に手助けをしてもらう際「ありがとう」を僕は何回言わなくてはいけないんだ。

もうイヤだと言ったそうです。・・してもらう、してあげる、の関係の中では確かに一方的に「ありがと

う」を言い続けます。一方的でない豊な関係。お互いに「ありがとう」の関係が私たちのNPOであると私

は思います」。実際スタッフは重度の障害を持った方々の訪問から帰ってくると大変な仕事の後でも子供

たちから癒されたとよく話します。利用者のお母さんからはフリーの時間を持ててありがとう、スタッフ

も子供たちの笑顔にありがとう。こうしたみんなでありがとうの言い合える働きを嬉しく思う。これから

もノーマライゼイションの社会を目指したい。この会のために祈ってほしい。

 また別の人から発言がありました。自分は人の意見を聞かないので、連れ合いは調停委員にはふさわし

くないと言うが、調停の時はよく人の意見を聞くようにしている。調停のための調査をしていると、いろ

いろ調べた情報を基に予断をもって人を見る傾向がある。そういう人とペアで調停に当たることがある。

私はできるだけ予断を抜きに話を聞くことにしている。すると色々相談者の事情がわかってきて、相棒も

分かってくれることがある。神の言葉を聞くということと共に、人の話を聞くことの大切さを思う。自分

の意見を強く持つということは、人の話を聞かないことに繋がるかも知れないが、できるだけ両立させて

いきたい。

 そしてもう一人の方からの発言しました。今晩の聖書箇所から、放蕩息子が生きて帰ってきて、どんな

にか嬉しい祝宴だっただろうと想像した。喜びをもって食事を共にすることの素晴らしさを感じる。私も

人と食事をすることが大好きである。最近よく昼食を共にする方が、大変な生活の中にあってコロッケを

もってきてくれた。本当に美味しくて嬉しかった。彼女は「あなたは本当に幸せそうに食べるね。」と言

い、「私の子ども時代は子守りを手伝っていたので、一人だけの食事を早く終えたい、ただ食べるだけし

か考えなかった。今でも一人で食べる時は黙々と食べてしまう。でも人と一緒に食べると美味しく感じ

る。」と話してくれた。食べる事一つを巡って様々な違いがある。一緒に食べると豊かになるんだなあと

喜びを実感した一日だった。                   
           

                「一生の旅」   7月1日


 家に帰って行くことは、生涯をかけての旅です。私たちには、放蕩に道を踏み外したり、憤ったままそ

こに留まり続ける傾向があります。知らぬ間に想像の中で欲望のとりこになっていたり、怒りに満ちた復

讐心にかられていたりして道に迷っています。夜見る夢や白昼夢は私たちが道に迷ったことをしばしば気

づかせてくれます。

 祈りや断食、心を込めて人に関わるなどの霊的な鍛錬は、家に帰る私たちを助けてくれます。家に向

かって歩いていると、それがどれだけ遠い道のりであるかが分かってくれることがよくあります。けれど

も、挫けないようにしましょう。イエスが私たちと共に歩いてくださり、私たちに道々話しかけてくださ

るからです。注意して耳を澄ませていると、途中なのにもうすでに家にいることが分かるでしょう。  

 
                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)