なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(404)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(404)復刻版を掲載します。2007年6月のものです。


      黙想と祈りの夕べ通信(404[-39]2007・6・24発行)復刻版


 6月23日は沖縄の慰霊の日です。この時期昨年度までは毎年何らかの形で「合同のとらえなおし」や

「沖縄」のことを考えるために外部講師を招いて礼拝を持ってきました。しかし、今年は特別にどなたか

を招くということはしませんでした。その代わりに6月24日の礼拝では、説教の中で私なりに沖縄のこと

に触れたいと思っています。5月27日―28日開催の沖縄教区総会に傍聴にいった方の話では、沖縄教区総

会では決算報告も予算案も承認可決できず、後日臨時総会が開かれるというのです。また、教会互助が昨

年度より大幅にカットされるということもあって、沖縄の諸教会の現実はなかなか厳しいようです。沖縄

の教会が教団との間に距離を置くと決断してから、すでに4年以上が過ぎています。沖縄教区では「沖縄

にある将来教会の在り方を検討する特設委員会」を設け、沖縄にある教会のあるべき姿を模索していま

す。この特設委員会がどのような方向を出すにしろ、私たちヤマトの教会は、自分たちの問題として沖縄

の諸教会との関係をどのように形成していくのかが問われていると思います。辺野古の状況も厳しくなっ

ていると言われますが、今も犠牲を沖縄に強いているヤマトの在り様を厳しく切開しなければならないと

思います。沖縄と沖縄の諸教会のことを覚えて祈りつつ・・・。

 上記の私の発言に引き続き、一人の方からの発言がありました。数年前石垣島に行ったとき、日曜日近

くの教会の礼拝に出ました。出席者数名の礼拝で、お年の人が多かった。会堂も木造りで古く、椅子も背

もたれのないものだった。あの時でも高齢化を強く感じたのだから、数年後の今はどうなっているだろう

か。

 もう一人の方の発言がありました。辺野古国会前の座り込みに今日も行って来た。今日はそこに沖縄教

区総会を傍聴したK牧師も来たので、沖縄教区の話を聞いた。以前辺野古に行ったときに、名護の教会の

礼拝に出席したことがある。その時はY先生が応援で説教をされ、ゲストがいたが、普段の出席者は3~4人

ではないかと思えた。今日もK牧師と話したが、米軍再編の中で自分たちは国会前で座り込みを続けてい

るが、辺野古では沖縄の教団関係者は一人か二人来るくらいである。沖縄では表立って米軍再編反対を言

えない現実がある。反対すべきだが、反対できない沖縄の現実を理解しなければならない。経済的にも沖

縄は本土の70パーセントという格差がある。政府はイラク特措法などを今晩中に国会で可決しようとし

ている。国会前にはいろいろなグループが集まっていて、それぞれアッピールをしている。中には別のグ

ループを誹謗しているグループもある。みんな国会議事堂に向かっている。反対側には座り込んでいる人

たちを自動車の中からカメラで撮っている警察の人がいる。国会と警察と座り込みの人たちという三極構

造の中で、「革命を起こすぞー。政府を打倒すぞー。」と、気勢をあげるグループもありった。私たちは

3人だけで、何も言わずに、いつものようにただ座り込んでいるだけだ。それでも今日も参議院議員の何

人か座り込んでいる私たちの前を通った。いつもそこに座り込んでいるおばさんたちがいると思われるだ

けでよいと思う。今日は宴会への招きの聖書箇所を読まれたが、何を聞き、何をしたらよいか、祈り求め

ていきたい。本当の平和はどうしたら来るのか。革命革命と叫んでも空しい気がする。この日本の社会で

平和を求めるということはどういうことなのかを考えさせられた。

              
             「肉は言葉となる」   6月24日


 言葉は肉とならねばなりません。しかし、肉もまた言葉とならねばなりません。私たち人間にとって

は、ただ生きるだけでは十分とは言えません。同時に私たちはどのように生きているのかを言葉にしなけ

ればなりません。どのように生きているかを語らないなら、私たちの人生は活力と創造性を失ってしまい

ます。美しい景色を見たら、見ているものを表そうと言葉を探します。心やさしい人に出会ったら、その

出会いについて語りたくなります。悲しみや大きな苦しみに遭うと、その悲しみや苦しみについて語る必

要を感じます。喜びで驚いた時には、その喜びを告げ知らせたいと思うのではないでしょうか。

 言葉を通して、私たちはどのように生きているかを自分のものとし、内面化します。言葉は、私たちの

経験を真に人間的なものとしてくれます。  

 
                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)