なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(156)

          船越通信癸隠毅供 。横娃隠看4月20日              

・13日の日曜日は、礼拝後2014年度の教会総会の資料を皆で綴じ込み、教会員の方には持ち帰って

もらいました。教会総会資料の綴じ込みの後、いつものようにお茶を飲みながら懇談の時を持ちました。

その懇談ではもっぱら教会の道路に面した崖の落石についての話になりました。落石そのものは、崖が道

路面から2メートルほどはコンクリートで、その上に石が積み重ねられていますので、その石と石の間に

岩の断片か詰めたコンクリート部分が落ちたようです。現在業者に見てもらっていることは、先週の船越

通信にも書いてあります。懇談の時には、この崖が何時ごろに造られたのかという話になり、船越教会で

洗礼を受けて50年近くになるWさんは、最初に船越教会に来た時には、建物は今と違っていましたが、

崖や階段は今と同じだったということですので、少なくとも5、60年前のものではないかと思われま

す。その話し合いの中で、Nさんが、ご自分が描いた図面を出して、私たちに見せてくれました。その図

面には、道路から階段とは別にエレベーターが設置してあります。このエレベーターがあれば、人だけで

はなく、バイクや自転車ならエレベーターで教会の敷地の中に置けますし、教会に来る人が高齢になって

階段で上るのがきつい人でも、エレベーターで礼拝堂に来れます。以前私も現在の船越教会の場所で教会

活動をずっと続けるとすれば、エレベーターの設置が必要ではないかと思ったことがありました。

・しかし、エレベーターを設置し、崖を抜本的に直すことになりますと、大変な金額が必要になります。

教区のある教会では、エレベーター設置を、それに伴う建物の耐震強化を含めて7,000万で行うとい

うことです。教会が土地や建物を持つ場合には、どうしてもその維持管理が伴いますので、経済的基盤を

必要とし、事業をしていなければ、献金に頼らなければなりません。経済的に余裕のある多人数の教会員

がいる教会では可能でしょうが、そうでないところは難しいでしょう。教区のある教会では、教会員が減

少して、牧師謝儀を出すことができなくなり、たまたま以前幼稚園をしていた時の建物が教会の敷地内に

あったので、その建物を借りる企業があって、その企業と賃貸契約を結び、その収入を牧師謝儀や教会運

営に当てるということになり、実際にそういうことになったということです。現在の日本基督教団は実質

的に各個教会主義で、教会は個人事業経営のような面があって、経済的に恵まれているところがあれば、

困難なところもあります。恵まれているところは、大都市の教会に多く、そういう教会を現在の日本基督

教団は教会の理念型に据えていますので、人数を増やし献金を増やす教勢拡大路線をとっているのでしょ

う。

・船越教会としては、差しあたって崖の問題を何とかクリアーしていきたいと思います。

・16日の水曜日には、鶴巻で行っている小さな集まりがありました。その集まりで受難週でしたので、マ

ルコ福音書のイエスの十字架の記事について学びました。その際画家ムンクの「ゴルゴダ」という十字架

の絵を紹介しました。この絵は、ウルリッヒ・ルツ『マタイのイエス~山上の説教から受難物語~』に出

ていて、私は廣石望さんの説教集を読んでいて知りました。このムンクが描いているイエスの十字架の絵

の説明を廣石さんの説教集から引用すると、以下のようになります。

・<背景には暗い藍色の空です。赤い光が流れています。中央遠方に、全裸のキリストが十字架に架けら

れています。しかしその顔も体もほぼ肌色一色で、それ以上はよく見えません。一群の人々は十字架の下

にひざまずき、両手をキリストの方向に差し伸べて、彼の苦しみと死を嘆いているようです。しかし彼ら

は背景に退いており、前面に描かれているのは別の人たちです。この人たちはほぼ顔だけ描かれており、

後方の十字架に背を向けてこちらを向いています。明らかに嘲笑っている人たちがいます。他方、白い横

顔を見せる女性はうつむき、その左肩に手をそえるもう一人の女性の顔は暗い茶色です。マグダラのマリ

アと母マリアでしょうか。しかし最も特徴的なのは画面の全面中央に描かれた、髭面で禿頭の年老いた男

性です。まったくの無表情です。処刑される一人の男に背を向けて、「それがどうした」と言わんばかり

に、なんと冷酷な無関心ぶり!>。

・先週は受難週でしたが、ムンクの絵の前面に描かれている無表情で、イエスの十字架には無関心な男の

ようにではなく、この問題の山積している時代と社会の中を、生前のイエスの活動と共にイエスの十字架

と復活の出来事を思いめぐらしつつ歩んでいきたいと願います。

・17日の木曜日夜には、船越教会の聖書研究会がありました。扱った聖書箇所は、ガラテヤの信徒への手

紙3章10-18節でした。この箇所は、パウロが信仰による義を主張した後で、「律法による義」を否定し

ているところです。この箇所でのパウロの議論は、聖書(旧約聖書)におる証明とギリシャ・ローマ世界

の遺言を例にしての論証です。この日は私を含めて5名の出席でしたが、その話し合いの中で、パウロ

弁証は知的な感じがするので、パウロの手紙の読み手は知識のある人ではなかったかということが話題に

なりました。また、パウロの手紙が後の教会の教理や信条の形成にとって重要な役割を果たしたのではな

いかと思われますが、ガラテヤの信徒への手紙を読んでいても、そのことが分かるように思う、という話

にもなりました。さらに、パウロは「律法により義」を否定しているが、「信仰による義」だけを主張し

たのではなく、伝統的な神学では聖化とか義化と言われている面も強調していること見失ってはならない

と、私は付け加えました。「キリストを着る」(ガラ3:27)とか「キリストを身にまとう」(ロマ13:1

4)と言われていて、キリスト者の倫理にも強い関心を持っています。ただ、奴隷や女性については、パ

ウロは伝統的で差別的な言説をはいています。終末の到来が近いと信じていたからでしょうか。

・18日(金)は受苦日でしたが、教区の寿地区活動委員会を行い、私がまとめました2013年度の教区報告

を承認して、委員会終了後、オリエンテーション委員会報告と共に教区事務所に郵送しました。2つの委

員会の委員長は後1年続けますが、来年は教区規則により委員長は辞めることになります。