なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

棕櫚の主日説教

     「心にかける」イザヤ書10:4-7、フィリピ2:1-11
            
                        2014年4月13日船越教会棕櫚の主日礼拝

・自分とは違う人間である他の人のことを、私たちは自分自身の生活の中でどのように考えているでしょうか。

・私たちは、自分の生活の中に突然闖入してくる迷惑な他者について悩み、苦しむことがあります。そのような他者である隣人は身近な肉親の中にも、友人知人の中にも、あるいは同じ地域に住む住民の中にもいるかもしれません。人には多様性があり、そのライフスタイルも様々であるわけですが、自分のライフフタイルを絶対化して、他の人に押し付けてくる人です。人の生活の中に土足で踏み込んできて、自分の価値観を押し付けてくる人です。私たちは、そのような人の攻撃を如何に防御するかを考えて、自分を守ります。

パウロは、先ほど読んでいただいたフィリピの信徒への手紙の箇所では、そういう受け身の形で私たちが他者に対してどう対処するかということではなく、むしろあなた自身が主体的に他者をどのように考え、他者とどのように関わるのかということを、勧めの形で書いているのです。そこでパウロは、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意しなさい」(3,4節)と語っています。このような意味で、他者である私たちの隣人について考えることが、私たちにはどれだけあるでしょうか。

・3月11日の東日本大震災から3年目の日から4日間、仙台の東北学院を会場にして日本基督教団東日本大震災国際会議~原子力安全神話に抗して~フクシマからの問いかけ」がありました。その報告が最近の教団新報に出ていましたので、私も読みました。読んでみて驚いたのは、あの大震災・大津波、そして東電福島第一原発の事故によって被災された方々のことが、小さく「現場からの報告~地域とのつながりの報告」があるだけで、あとは3人のメイン講師による講演内容の紹介など空虚な神学論議に花を咲かせているのです。この会議を開催した人たちにとって、東日本大震災原発事故という未曽有の災害によって被災された人々のことがどれほど見えているのか疑いたくなるくらいです。この会議については、開催前から東日本大震災3年目に当たって被災地東北仙台で国際会議を開くのに、メインの3人の講師がすべて東京の人であることに、一部の人から疑問が呈されていました。被災された方々との関係を中心に据えて、日本基督教団という教会がそのような方々との関係をどのように形成していこうとするのか。正にその視点がなければ、このような会議を現在開く意味があるのでしょうか。仰々しく国際会議などと銘打って開いたのは、日本基督教団の利己心と虚栄心の現れ以外の何物でもないのではないか。報告を読んでいて、そんな思いにさせられました。

・教会やキリスト者の中にも「利己心や虚栄心からする」ことがあるのです。パウロが、わざわざ「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」と語っているのは、パウロ自身、人は利己心や虚栄心から行動するものであるということを、よく知っていたからではないでしょうか。そうであるからこそ、イエス・キリストによってそのような古い自分が死んで、新しくキリストを着たキリスト者であるフィリピの教会の人々に向かって、パウロは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と語っているのだと思います。

・「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え」とあります。動物としての人間である私たちは、競争社会の中で弱肉強食の世界を生き抜くためには、「へりくだって」いては、直ちに敗北を喫してしまいます。また「相手を自分より優れた者と考え」るのではなく、他の人よりも自分の優れているところをアッピールしなければなりません。大学生が大学を卒業して就職するときに、「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え」なさいというこの勧めに従うとすれば、就職できる可能性はほとんどゼロに近くなるに違いありません。自己アッピールをして、どれだけ会社に認めてもらえるかが、就職できるかできないかの大きなカギになっている現実社会にあって、このパウロの勧めは、何と非現実なものかと思われるかもしれません。

・けれども、本当にそうなのでしょうか。今もアベノミックスということで現政府は経済の活性化、企業の業績を上げることによって、働く人の賃金も上げるという政策を掲げてやっています。今年の春闘はベースアップした企業が増えているので、これを広げて、すべての働く人にベースアップできるようにと訴えています。しかし、経済成長戦略には、格差社会の広がりと環境破壊の進行など、陰の部分が付きまといます。正規雇用の人と非正規雇用の人との間にある格差の是正、公平な分配こそが今こそ必要なのではないでしょうか。公平な分配による平等社会の形成は、「利己心と虚栄心」に凝り固まっている人には不可能です。むしろ「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え」、「慈しみや憐れみの心があり、互いに愛し合い、心を合わせて思いを一つにしている」(2節)によってでなければ、生まれえないのではないでしょうか。

・「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とも、パウロは勧めています。すでに天上の人になっています、文芸評論家であり、詩人である吉本隆明さんが、亡くなる前に朝日新聞の経済欄に、「経済格差の拡大やそれに関連するさまざまな問題を、日本社会がどう受け止め、どう対応していくべきか」という問いに答えて、意見を載せていたことがあります。吉本隆明さんの答えは、一言でいえば、「身近な平等から始めよう」でした。

・「日本社会はこれからどういう方向に行くのでしょうか」という問いに、吉本隆明さんはこう答えてします。「いまは、どこをまねしたら道が開けるというものではない。自分で考えることだ。おまえはどう考えているんだという問いを突き付けられている状況だ。自分は、頼りにならない、ろくでもない政党しかないと思っているから、社会や文化の革命はどうしたらできるかを考えているが、日本はまだしばらく、でれでれしながら行くんだろうと思う。強制力がある政治になればまだ別だろうが、政治が変に強制力を持っても良い社会になるかどうかはわからない。人が大人になっていくように、他人や弱者のことを考えられる。身近な平等が確立される。そういう成熟した資本主義になっていけば、まだましということかもしれない」と。また、「健全な中流層を維持するにはどうしたらよいでしょうか」という問いには、こう答えています。「・・・つまり身近な所から、手近かなことから平等を実現することをやればいい。自分だけ豊かになっても、しょうがない。中流の『中』以下が富まないと自分が富んだことにはならない、ということをし続ければいい。私も友達のなかで文学とか雑誌を出したいというのがいた時には、出せるだけのお金は出して手助けしてきた。そんなことからはじめればいい」と。

・このように互いに他者のことを心がけるということは、キリスト者だけの特権というわではありません。けれども、パウロは、「何事も利己心や虚栄心からではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と勧めていますが、「それはキリスト・イエスにもみられるものです」(5節)と言っています。そして、6節から11節までに、これはパウロ自身の言葉というよりも、パウロも受け取った初代教会のキリスト讃歌ではないかと言われていますが、そのキリスト讃歌が続いて出てきます。

・「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(6-11節)。

・フィリピの手紙でパウロは、自分のことだけでなく、他者のことにも注意を払う生き方をキリスト(イエス)もしたのだから、キリスト者はイエスを模範として歩みなさいという意味で、このキリスト讃歌をここに記したのでしょうか。そのようにも受け取ることができます。事実新共同訳のこの箇所の表題は、「キリストを模範とせよ」になっています。確かに、私たちへのパウロの勧めの言葉の中にある「へりくだって」(3節)という言葉が、キリスト讃歌の中にもあります。8節に、(キリストは)「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。また、ここのキリストの「従順」が、12節の「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と言われていて、フィリピの信徒たち即ち私たちの従順に関連しています。

・では、模範とするということはどういうことなのでしょうか。自分自身をそのままにして、誰かを模範にするということでしょうか。そうではないと思います。パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:19,20)と語っています。この自分に代わる「内なるキリスト」の成長によって、私たちは、利己的で虚栄に満ちたこの自分を無にして、へりくだり、他者のことを自分のこととして思えるようになるのではないでしょうか。

・その意味で、今日から受難週になりますが、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と記されている、イエスの十字架への道行きを思い起こしたいと思います。