なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

第38回教団総会を迎えて

 下記のものは、10月24日の私の裁判支援会「全国交流集会」の案内の裏に刷って、教団総会出席者に配るために書いたものです。

   第38回教団総会を迎えるに当たって   日本基督教団「免職」牧師  北村慈郎
 
戒規免職処分を受けた私に対して日本基督教団は、戒規は教会の訓練規定だから私が悔い改めればいつでも復帰できるので、悔い改めて復帰することを勧めると言っています。例えば今年の関東教区総会での石橋議長の発言が教団新報(6月30日号)に掲載されていますが、それによれば「戒規は教団の訓練規定、北村氏は未受洗者陪餐をやめて帰って来てほしい」というのです。

 まず未受洗者陪餐は教師である私個人で行っていることではなく、遣わされた教会の決定に従って、その教会に招へいを受けた教師として行っているものです。私は1979年に教団の正教師になってから紅葉坂教会の前任の御器所教会では洗礼を受けた者だけが陪餐する伝統的な聖餐式を行っていました。1995年4月に紅葉坂教会に転任した時、既に紅葉坂教会は洗礼を受けていない人にも希望者には陪餐する聖餐式に一歩踏み出していました。聖餐式の時の招きの言葉の最後に通常は言っています、「この聖餐には洗礼を受けた者が与ることができます。どこの教会に属している方でも、洗礼を受けた方はこの聖餐にお与りください。洗礼を受けていない方はそのままでしばらくお待ちください」という言葉を、私が転任した時の紅葉坂教会では言っていませんでした。

 ですから、実質的には希望する者は誰でも聖餐に与ることができました。ただ教会全体の合意が出来ていませんでしたので、伝統的な信仰を持っていた信徒の中には、洗礼を受けた者しか聖餐には与れないと考えていた人も多かったと思います。私が転任する数年前に礼拝で陪餐した中高生に信徒の一人が、礼拝後「あなたは洗礼を受けていないからこの聖餐には与れないのよ」と注意したことがありました。その頃の紅葉坂教会では同じことが繰り返される可能性があるというので、私が転任したその年に役員会から聖餐の問題に道をつけて欲しいと要望されました。

 当時既に紅葉坂教会は社会に開かれた教会をめざして約20年歩んでいましたし、教会員の多くの方が寿地区センターのボランティアとして日雇い労働者の寄せ場である寿地区に関わっていました。そういう教会の歴史の中で希望する者には誰にでも開かれた聖餐を教会が決断してきたと私は思いましたので、慎重に学びを積み上げながら、最終的に1999年3月の教会総会で陪餐を受洗者に限る教会規則8条削除をもって、洗礼を受けていない者にも希望する人には陪餐を可とする聖餐式を行うようになりました。この教会規則変更は教団に届け出ましたが、承認はしてもらえませんでした。

 紅葉坂教会は旧組合教会の伝統による会衆派の教会でしたので教団に所属してからも一個教会としての教会の自治を大切に教会形成をしてきました。もし8条削除の規則変更を承認しない教団が、全体教会の統制によって干渉してきた時には役員会で対応することを確認しましたが、その後教団は何も言ってきませんでした。


 ところが私が教団の常議員に選ばれ2期目の2007年になって、記録も取らない懇談ということで私は常議員会で聖餐についての発題を当時の山北宣久議長から頼まれ、発題をしました。するとその後すぐに教師退任勧告となり、戒規申立てと続きました。戒規申立てが手続き上の不備により教団総会で否決されると、今度は教師委員会が、それまでの戒規に関する教師委員会の内規では戒規の提訴者は教区常置委員会か教会役員会となっており、役員会の場合は常置委員会を通してと明記されていましたが、その内規を改定して個人による戒規申立を受け付け、一切の話し合いもなく私を戒規免職処分にしました。上告した審判委員会の審議においても、一度の面談もなく教師委員会の免職決定を正当とする結論を出し、最終的に私を免職処分にしました。

 そうしておきながら、「戒規は教団の訓練規定、北村氏は未受洗者陪餐をやめて帰って来てほしい」などと何故言えるのか、私には理解できません。

 そもそも聖餐の問題は教師個人の問題ではなく教会の問題ですから、教団が諸教会の中に「聖餐の乱れ」があるというのであれば、教師に対する戒規免職処分ではなく、丁寧に諸教会と論議して合同教会としての教団の方向性を考えていくべきではないでしょうか。

 そういう意味で、私の戒規免職処分はどう考えても教団が問題をすり替えているとしか思えません。今教団総会に「『信仰告白』と『教憲・教規』における洗礼と聖餐の〈一体性と秩序〉とを確認する件」という議案が常議員会提案で出ていますが、信仰告白とか聖餐のような教会の教義の問題は統制でどうこうするものではありません。聖書と現実との往還で苦闘している各個教会の現場の声を聞いて、常に諸教会が「み言葉によって改革される」べく、そのための論議の場を教団が保証し確保すべきではないでしょうか。

 教団が多様性を認めて忍耐深い対話の中から一致を求めていく本来の合同教会に立ち戻り、合同教会として成長することを切に願うものです。
                        (2012年10月23日)