黙想と祈りの夕べ通信(310)復刻版を掲載します。2005年9月のものです。
この通信の中に聖餐式のことが記されています。私が紅葉坂教会の牧師時代に教会でで行っていた聖餐
式です。ここには日曜学校の夏期学校で行った聖餐式のことも記されています。今日のブログには、大塩
清之助牧師の「日本基督教団の「北村牧師・免職処分」を問う~宗教改革の光の下で~」という、11月4
日の私の裁判支援会報告・討論集会で配布された文章も掲載させていただきました。12月13日発送予定の
支援会通信第9号別冊に先生の了解を得て、掲載することになっています。この文章で、大塩先生は、ル
ターと私を並べて(光栄すぎますが!)私の「未受洗者配餐」を可とする聖餐式は、「教理上の具体的な
改革」を教団に提案したことになると言っています。確かに問題提起という意味では、そういう面もあり
ました。大塩先生は、この私の問題提起は、一教団の教会法(教憲教規)によって裁かれるべきものでは
なく、「聖書の福音」の光に照らして、共に論議すべき教理上の具体的な改革案ではないかと。その上に
立って、私の「戒規処分」に関する「全教団的対話」を促し、下記の小論をもって私もともに参加したい
と、おっしゃっておられるのです。
先生の小論は、私としてはこそばゆい感じもしますが、その論旨は全くその通りではないかと思ってい
ます。
黙想と祈りの夕べ通信(319[-49]2005・9.4発行)復刻版
障がい者と教会の集いが8月28日(日)から29日(月)にかけてあゆみ荘で今年も行われました。今回は第2
0回ということですが、私は紅葉坂教会に来てから、一度沖縄で平和を学ぶ集いが同時期に重なってそち
らに参加してお休みしただけで、今回を含めますと10回は参加していることになります。一昨年までの数
回は心の病いをもつ方からの問いかけが中心の集いで、それぞれの方の負っている重荷の厳しさに圧倒さ
れました。今回は「あなたと居場所を求めて」ということがテーマで、社会福祉小委員とこの集いの準備
委員がそれぞれが感じている居場所について語る朗読劇がありました。それに秦野西教会牧師のTさんか
ら、Tさんが関わっている不登校の子どもたちのことが発題としてありました。不登校の子どもたちにと
っての居場所、障がい者の居場所、そして参加者すべての居場所について考えました。Tさんの話から
は、子どもたちを可能な限り先入観を排して、ありのままに受け入れることの大切さと難しさを感じまし
た。子どもたちは、他の子どもたちと比べられたり、均質に見られることによって傷つくのです。競争社
会や均質社会の生きにくさを改めて感じました。ハンディを負っている人がその人なりに受け入れられる
共同性の在り様も、私たちの課題です。そのためには、個の尊重が本当に大切にされる社会とならなけれ
ばと思います。
上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。8月20日~22日に道志村で日曜学校の夏
期キャンプが行われた。今年もテーマは「バラバラのいっしょ」(V)で、聖書は5000人の共食の物語を
選んだ。食べること、共に分かち合うことをメインにプログラムを立てた。スタッフの会では三つの展開
を考えた。民宿に着いたときおやつをいただいた。参加者40人でおやつの饅頭の数が最初から7つくらい
足りなくなるように設定した。子どもたちはとって食べ始めた。最後の方で饅頭がなくなり、食べられな
い人がでた。食べられない人、すでに食べてしまった人、そこでみんながどうするかを体験した。饅頭を
手にしてまだ食べていなかった子が、饅頭がなかった人にあげると言った。饅頭をすでに食べ始めていた
子が、食べかけの饅頭をなかった人にあげると言った。饅頭のなかったスタッフは、わざと食べかけのま
んじゅうではやだと言った。そういう体験を最初にした。2番目の日曜礼拝では、みんなで、食卓にテー
ブルクロスをし、野の草花を飾り、パンとぶどうジュースを均等に分けて聖餐式を行った。3番目の閉会
礼拝では、世界が100人の村だったらという本から、現在の世界で、豊かに食べられ太り気味の人たち、
健康を維持する程度に食べられる人たち、十分には食べられないで痩せている人たち、食べられないでい
つもお腹をすかせている人たちの比率で、40人を4つのグループに分けた。五つのパンと二匹の魚を太っ
ているグループには少し、いつもお腹をすかせているグループには一番多く分けた。私はそれを体験し
て、みんな同じように公平にということも大事だが、食べられない人には多く、食べられる人には少なく
ということも、神様のみ心のように思えた。3年ほど前の夏期キャンプは教会で行い、日雇い労働者のぶ
どう園の物語を扱った。夕方に雇われた人から朝早く雇われた人に賃金が支払われる。みんな約束した一
デナリずつであった。すかさず「ずるいよ」と言った子がいたが、一家族の母親役になった子どもが、
「いいじゃないですか。その家は喜んでいるでしょ」と言ったのを今でも覚えている。2泊3日で今回の道
志村は自然も豊かなところである。川に入り、温泉にもいった。ふかしたじゃがいも、もぎたてのきゅう
りも民宿の自家製の味噌をつけていただいた。そこで子どもたちと過して、天国ってこういうところなの
だろうなあーと思った。日常に戻ると忘れてしまうかも知れないが、豊かな経験をすることができて感謝
である
別の方から上記の二人の発言を聞いて「居場所」と「聖餐式」についての感想を述べられ、以下のよう
な発言がありました。8月第一日曜日、平和聖日の聖餐式もすばらしかった。来週の日曜日は京都の平安
教会に出席して聖餐式に与る予定である。金曜日の仕事を終えてから、青春18切符を使い夜行列車で京都
に行き、土曜日には教会の人と会い、日曜日には礼拝後神戸に親戚を訪ね、その日の午後11時57分横浜着
の普通列車で帰ってくるつもりである。
日本基督教団の「北村牧師・免職処分」を問う~宗教改革の光の下で~
大塩清之助(町屋新生伝道所協力牧師)
〈プロテスタント教会法の視点から〉
(はじめに)日本基督教団(以下教団)が北村慈郎牧師を免職処分にしたということは、教団が自己の法
を用いて同氏を戒規処分にしたということである。そこで私は宗教改革にさかのぼって、プロテスタント
の教会法の視点から「北村牧師・免職処分」を考えてみた。
塀ゞ飢?廚里箸):聖書の福音に基づいてカトリック教会に改革意見を提出したルターを、カトリッ
ク教会は、自己の教会規則(伝統)に基づいて、破門にした。
◆丙F釗法Ю蚕颪諒_擦亡陲鼎い董教団に改革意見を提出した北村牧師を、教団は、自己の教会規則
(教憲教規)に基づいて、牧師免職処分にした。
,鉢△箸倭蟷?舛任△襦プロテスタント教会法の視点から見れば、共に重大な過ちを犯していると私
は考える。
(視点1)プロテスタント教会法の権威(最高の規範)は聖書である。それ以下は、重要さの序列に従って
規範性(拘束力)が下がって行く。(注:「教会の権威」であり、教会法上、全プロテスタント教会に対
して、最高の規範性(拘束力)をもっている「聖書の福音」の中身は「上からの権力的暴力的な支配力」
ではなく、「神の子イエス・キリストの死による万人の罪の赦しと復活の約束」という「恵みの福音」に
よる、下からの奉仕的な救いの力である。)
(視点2)ルターも北村牧師も共に上記の「教会の権威」であり、教会法上、全プロテスタント教会に対
して、最高の規範性(拘束力)をもっている「聖書の福音」に基づいて、それぞれの教会に、教理上の具
体的な改革を提案している(因みに1:北村牧師― 峩飢颪録徒に限らず求道者、子どもも、礼拝に参
加するすべての者がイエス・キリストの恵みに与る場所である」。∪?蕕鮴算舛両魴錣箸靴覆ぁ1998年
1月役員会)。6誼弔法峩飢餤則第8条削除」の規則変更申請を提出。
(視点)問題の焦点は当時のカトリック教会も今日の教団も、「聖書の福音」という教会法上最高の規
範に基づいてなされた教理上の問題提起を、教会法上自己の教団(教会)の中だけに通用する、低い規範
性(拘束力)の自己の「教会規則」(教憲教規)によって判定し、しかも改革意見の提起者に対して、破
門や牧師免職を行ったのである。(もしルターや北村牧師の倫理的過ちに対する戒規処分なら、自己の教
会法による処分も可能であろう)。しかし、プロテスタント(福音主義教会)の教会法に於いては、一つ
の教会(教団)の中だけで通用する規範性の低い「教会規則」(教憲教規)によって、プロテスタントの
全教会の問題を判定しうる最高の規範性を持つ「聖書の福音」に基づいて提起した改革意見に対して、其
の是非を判定することは、本来不可能なことである。しかも、改革者を、破門とか牧師免職処分にすると
は、甚だしい間違いであり、非福音的(律法主義的)な行為であると言わねばならないであろう。
(終わりに)教団は、プロテスタントの教会法の視点に立ち、上に述べたように違法な「北村牧師・戒規
免職処分」の過ちを認めて撤回し、北村牧師と紅葉坂教会と、教団の全教会に、率直に謝罪すべきである
と思う。私はこの小論によって、今後「北村牧師・免職処分」に関する・全教団的対話に参加したいと願
っている。そして共に「聖書の福音」という教会の最高の規範の上に立って討論し、主にあって共に赦さ
れ共に復活の約束を与えられている兄弟姉妹との、自由で多様な豊かな交わりに与りたいと思う。もとよ
り共に、公同で合同の日本基督教団の会員として。在主。