なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(509)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(509)復刻版を掲載します。2009年6月のものです。

 下記ナウエンの言葉は、私自身の福音理解と共通しているものがあります。イエスは「底点志向者」

(深津文雄)ですから、最も底辺に生きる人々と共に生きることによって、すべての人と共にある神の

支配としての神の国を宣べ伝え、ご自身その神の支配(神の国)を生きたのだと思います。そしてその

エスが、イエスと同じ道を生きるように私たちを招いているのだと思います。


         黙想と祈りの夕べ通信(509[-38]2009・6・28発行)復刻版


 先日の新聞に裁判員制度についてのカトリック教会の態度が出ていました。たとえ裁判員に選ばれたと

しても、司祭は罰金10万円を支払っても断ること。それは教会法第285条第3項「聖職者は、国家権力

の行使への参与を伴う公職を受諾することが禁じられている」の規定に従ったものとのことです。信徒は

それぞれの良心的判断に任せるというものです。裁判に関わるということは現在の日本の司法では死刑執

行があり得るわけで、死刑判決に関与するかもしれないなどの理由で、「良心的に拒否したい」という信

者には、その立場を尊重するというわけです。このようなカトリック教会の判断の是非はともかくとして、

教会が社会に向って己の在り方をはっきりと表明することは大切なことではないかと思わされました。今

国会では臓器移植法の審議がなされています。先日衆議院では可決し、参議院に回っています。この臓器

移植法についても、人間の生死に関わる問題でもありますから、教会としての判断を社会に向ってきちっ

と発信していくべき問題ではないかと思います。私たちが所属しています現在の日本基督教団という教会

は、裁判員制度にしても臓器移植法のことにしても、しっかりとした研究の上立って態度表明を出すまで

成熟していません。残念ですが、それが教団の現状です。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。私は子どもの頃からプロレスが好きだった。

最近三つ年上のプロレスラー三沢光晴さんが死んだ。三沢さんが全日本プロレス時代には何回か見たこと

がある。彼は投げ技、寝技、打撃、関節技に通じ、相手のよいものを引き出すことができた。死んでから

花を捧げる人が多い。最近は殆ど練習もできないまま、首も曲がらない満身創痍の状態で、プロレスに出

ていたようだ。社長として自分の家を抵当に入れてまで若い人に給料を支払っていたという。自分で自分

を追い詰めていたのかも知れない。昔プロレスが八百長だとか、ショーまがいに言われたが、三沢さんは

それを否定したかったのだと思う。プロレスへの偏見の目とも闘っていたのではないか。地方の村おこし

のために入場料もとらないで行っていた。三沢さんの死に大変ショックを受けた。

 続いて別の方の発言がありました。今日も国会前の座り込みに行って来た。私たちの座り込みの所に、

先ほど話のあった臓器移植法の院内集会に来た人も寄ってくれた。今日の座り込みは 昨日が沖縄慰霊の日

だったので連帯の意味で多くの人に声を掛けた。サンシンを持ってきて、替え歌をうたったり、沖縄であ

った慰霊の日の声明やその日読まれた小学校6年生の詩を路上で読み上げた。国会議事堂を見学に来た小

学生も向かい側から手を 振ってくれた。座り込みも5年になる。普段水曜日、座間で座り込んでいる人た

ちも今日は国会前に来てくれた。何時も国会前に座り込んでいる東京の方が、大きなうねりを起こす会が

元気なので励まされると、今日出したうねりを起こす会のニュースに書いてくれた。たまたま5年前に沖

縄に一緒に行った仲間が中心になって大きなうねりを起こす会ができた。そのメンバーの何人かは戦後の

ドサクサ時代に小学生で、感性が自由で、皆それぞれの歩みをしている。同じ教会の方ではなく、他の教

会の方々と出会って、共に仲間がいることが心強い。そこに行くと、社会的問題への関心を持って行動し

ているので励まされ、知らされ、元気をもらえる。今日も何人来てくれるのかと思っていたが、よく来て

くれた。合同のとらえなおしの審議未了廃案が契機に生まれた会だが、これからも沖縄との関わりで出来

ることは何かを考えながら続けていきたい。

 また、もう一人の方の発言がありました。みなさんの話を聞いて、命について思わされた。今朝慰霊の

日の小学生の詩を読んで、悲しみの大切さを感じた。幸福というと狭い気がして、自分たちの幸福だけで

はなく、他者の悲しみを共感し連帯して希望を見出し、平和を造り出していきたい。


            「下は向って」        6月28日


  私たちの社会は、前進したいなら、上に向って進まねばならないという示唆に満ちています。頂点を

極める、脚光を浴びる、記録を破る。これらは人々の注目を集め、新聞の一面を飾り、金と名声という報

酬を私たちに与えてくれます。

 イエスの生き方は根本的に違っていました。それは上に向って行くのではなく、下に向って行くもので

した。底辺を目指し、舞台のセットの後ろに隠れ、一番最後の場所を選び続けることでした。イエスの生

き方は、なぜ選ぶに値するのでしょうか。イエスがとったのは、み国に到る道であり、永遠のいのちに到

る道だからです。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)