なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(583)

船越通信、№583、2230年9月17日(日)北村慈郎

 

  • 10日(日)は礼拝後役員会がありました。今回も役員会の議事は話し合わなければならないことはほとんどなく、12時10分ごろには終わりました。コロナ感染が落ち着いたら、ゆっくりみんなで話し合う修養会のような会を持ちたいと願っていますので、今回の役員会の協議事項の一つに入れて置きました。しかし、この所コロナ感染者が身近にもでており、また感染者数が第8波のピーク時(昨年12月)の8割近くに達し、オミクロン株から派生した変異株「EG・5(通称・エリス)が主流になりつつあると言われている状況を鑑みると、「修養会」はもう少し後にした方がよいということになりました。役員会が終わって、散会した後、後片づけをしてから、私もバスで追浜に出て、鶴巻に帰りました。この日私は朝と昼を兼ねてセブンイレブンの「ガパオライス」を食べていましたが、娘が夕食に作ってくれたのも「ガパオライス」でした。偶然の一致で、この日の二食は普段はほとんど食べない「ガパオライス」でしたが、それぞれ美味しくいただきました。娘は午後8時ごろ帰って行きました。
  • 11日(月)は、牧師の休日でしたが、二つの仕事をしました。一つは、17日(日)に川崎の桜本にある在日大韓基督教会川崎教会を会場にして行われる教区のオリエンテーションのことで、会場教会の牧師と発題をお願いしているお二人に、オリエンテーションの案内を添付し、おおよその出席者人数をお知らせして、改めてよろしくお願いいたしますというメールを送りしました。もう一つは、このところ毎日のように上海から電話をもらっている方の要望で、彼女の連れ合いに手紙を書きました。これが三通目ですが、その手紙を翌日12日に郵便局で、EMS(国際スピード郵便)で出しました。私はこれまでクリスマスカード以外は他国の人に手紙を出していませんでしたので、今回はじめてEMSというものがあるのを知りました。このEMSは日本郵便にメールで追跡を申し込むと、相手に何時届いたかを知らせてくれます。上海だと大体5日程で届きます。
  • 12日(火)は、午後紅葉坂教会時代に彼が高校生の頃から知っていて、それ以来長く交流のある画家の個展が鎌倉の小町通りを少し入ったところの民家のギャラリーで開催中でしたので出かけました。彼の個展は、彼の若い時からずっと出来るだけ観てきましたが、ここ2,3回は、彼の個展の場所や日程が私と折り合いが悪く、スルーしていました。ですから今回は久しぶりに彼の個展を観ました。最初に感じたのは、色彩がきれいで、一作品一作品の色合いが違っていて、多彩になったことです。それと今までは、彼の絵を見ている自分がなんとなくざわつくようなところがありましたが、今回はそれがありませんでした。それぞれの絵の存在感が感じられました。しかも今まではどちらかと言うと、絵が内にこもる感じでしたが、今回の絵は外に開かれている感じもしました。人から彼は現在調子が良いようだと聞いていましたが、絵を観て確かにそう感じられました。鎌倉の小町通りを歩いたのは何年ぶりでしょうか。10年以上歩いていないように思います。この日はそれなりに人も多くいましたが、多分比較的少ない日だったのではないかと思います。帰りは彼が裏道を教えてくれて駅まで送ってくれました。鎌倉の駅で彼と別れ、私は大船から藤沢に出て、小田急で大和まで行き、午後6時開催の基地問題を扱う県央共闘会議幹事会に出席しようと、大和のシリウス6階会議室に6時少し前に行きました。でも幹事会はどの部屋でも行われていません。受付で確認しましたら、13日(水)午後6時ということでした。私は手帳に間違えて記していたようです。そのまま鶴巻に帰り、13日の幹事会も失礼ました。
  • 14日(木)は国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに、小田急の人身事故で少し遅れましたが行きました。この日はいつも参加する方が一人欠席で、3人でしたが、途中から二人の方が加わってくれました。このお二人は午後3時から4時まで官邸前で辺野古新基地建設の土砂投入反対を掲げて座り込みをしている方々の仲間です。その一人の方は、「ジュゴン保護キャンペーンセンター」(SDCC)のスタッフの方です。2000年に国際自然保護連合(IUCN)の第2回世界自然保護会議で沖縄のジュゴン保護勧告が採択されて、翌年の2001年3月1日東京で、このジュゴン保護勧告を実現するためにジュゴン保護キャンペーンセンター(SDCC)は結成されました。辺野古の座り込みが始まったのが2004年4月19日ですから、それぞれ20年近い活動を続けていることになっています。
  • この日同じ座り込みをしている方から、「311子ども甲状腺がん裁判NEWS」を読んでみてくださいと言って、ニュースを頂きました。その中に「原告の意見陳述(全文)・自分の将来は、すべて変わってしまった」(原告6さん)が掲載されていましたので、私も読ませてもらいました。「私は、この裁判の一回目の期日が開かれる直前に、アイソトープ治療を受けるための入院をしました。アイソトープ治療とは、甲状腺を全部摘出した後、再発や転移を防ぐために、大量の放射性ヨウ素を服用する治療です。/私は高校3年生、17歳という年齢で、この治療を受けることになりました。中学生の時に甲状腺がんとなり、そして昨年、再発したからです。/裁判官の皆さん、11年間の私の経験を聞いてください」言って、「事故当時のこと」「がんが見つかった時」「一回目の手術」「2回目の手術」「アイソトープ治療」について語り、「最後に」で、「私は小学校に入る前に原発事故に遭い、…自分の考え方や性格、将来の夢も、まだはっきりしないうちに、全てが変ってしましました。/だから私は、将来自分が何をしたいのかよく分かりません。ただ、経済的に安定した生活を送れる公務員になりたいと考えています。恋愛も、結婚も、出産も、私とは縁のないものだと思っています。/…/私は将来が不安です。とくに、金銭面での不安が一番大きいです。…病気が悪化した時の生活はどうすればいいのか、本当に不安です。/…この裁判で、将来、私が安心して生活できる補償を認めてほしいです。/…」。この少女にこのような裁判での証言をさせる原発事故の深刻さを東電も政府も認識すべきです。