なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(47)

        使徒言行録による説教(47)、使徒言行録13章26-37節
              
・「神が復活させたこの方は、朽ち果てることはなかった」(使徒13:37)。今日はこの言葉から力を与えられたいと思います。

・ピシディア・アンテオケのユダヤ教の会堂で、パウロは、会堂司に促されて、人びとのに立って説教をしました。前回は、その最初の部分について触れました。まずパウロイスラエルの歴史をひもどき、出エジプトからダビデまでの歴史を振り返り、そこに一貫している神の導きについて語りました。そして、ダビデから一直線に、ダビデの子孫から現われると信じられていたメシヤがイエスであることを語りました。イエスは神から遣わされたメシヤ・救い主であると。

・その続きが、先ほど読んでいただいた使徒言行録の個所です。この個所では、主にイエスの十字架と復活、特に復活について、パウロは述べています。先ずパウロは会堂にいる人びとに呼び掛けて、<兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました>(26節)と述べています。「神を畏れる人たち」は、非ユダヤ人(異邦人)でユダヤ教の会堂の礼拝に参加していた人たちのことです。

・ここに<救いの言葉>とあります。この<言葉>はロゴスです。このロゴスはヨハネ福音書のプロローグのロゴス賛歌でのロゴスと同じ言葉です。ヨハネ福音書のロゴス賛歌の初めの部分を読んでみたいと思います。

・<初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもののうちで、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった>(ヨハネ1:1-5)。

パウロの説教はこのように続きます。イエスを認めなかった<エルサレムの人々や指導者たち>は、<安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、・・・・死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました>(27,28節)。そのことによって、彼らは実は預言者の言葉を成就したのです。<こうしてイエスについて書かれたことがすべて実現した後、人びとはイエスを木から降ろし、墓に葬りました>(29節)。<しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです>(30節)。そして<ご自身と一緒にカリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現しました>(31節)。<神が復活させたこの方(イエス)は、朽ち果てることがなかったのです>(31節)。

パウロはここで、<救いの言葉>としてのイエスは、朽ち果てることのない生きた方であると語っているのです。しかもガリラヤからエルサレムにイエスと一緒にやってきた人々には、イエスの死後、復活した自らの姿を現されたというのです。このようにパウロの説教の内容からしますと、パウロは、<救いの言葉>である<生ける主イエス>は、朽ち果てることなく、今も、とこしえに、生きて私たち一人一人と出会っておられるということを伝えようとしているのです。

・このことは、神が死から立ち上がらせて、朽ちることのないイエスを通して、私たちに死からの解放を告げているということを意味します。34節は、新共同訳では<また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、・・・>と訳されています。このところは田川訳では<神が彼を死人の中から復活せしめて、朽ちることの中へと決してもどることのないようになさった、という点については、・・・>と訳されています。また本田哲郎訳では、<また、神が、イエスを死者の中から立ち上がらせ、もはや死の腐敗に戻ることがないようにされたことについては、・・・>と訳されています。死は、<朽ちること><腐敗>であり、復活したイエスはそこに戻ることはないというのです。<ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです>(36,37節)と。

ダビデ王国は、イスラエルの民の歴史の中では、独立した国であり、最も繁栄した地上での王国でした。しかし、そのダビデ王国も587年にはバビロニアによって滅ぼされてしまいました。王国は朽ち果て、ダビデも死んで、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。けれども、神が復活させた方であるイエスは、朽ち果てることがないのです。このように語ったパウロの中には、或いはこのようにパウロに説教させている使徒言行録の著者ルカの中には、この朽ち果てることのない復活者イエスを王とした朽ち果てることのない王国をイメージしていたのかもしれません。

・34節後半の「わたしは、ダビデに約束した 聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える」は、イザヤ書55章3節からの引用です。このイザヤ書55章は、3節の前半には、「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来なさい。聞き従って、魂に命を得よ」とあり、6節、7節でも、「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」とあります。そして、「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる」(8節)とあり、その神の思いは必ず実現成就することが述べられます。その後に、「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれていく。山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も手をたたく。茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去ることがない」(12,13節)と記されています。

・もう一つ、35節にある「あなたは、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない」という言葉は、詩編16編10節からの引用です。この詩篇16篇は、神との交わりの中にある者は死の力からも守られている、つまり死の力によっても神との交わりは絶たれないということを歌った詩です。この35節の後に、「(あなたは)命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます」(16:11)と続きます。

使徒言行録のパウロの説教では、イザヤ書55章や詩編16篇が、ある意味でイエスの復活預言とされています。死を克服する神との交わりを信じ、それを待ち望むことによって、イエスの復活を預言していると。つまりイザヤ書55章や詩編16篇の預言は、朽ち果てることのない復活者イエスにおいて実現成就したのだと、語られているのです。

・さて、現在、私たちは、3・11の原発事故によって、すべてを朽ち果てさせる死の力によって私たちが支配されていることを、現実のものとして感じさせられています。かつて戦争が、またすべてを朽ち果てさせる死の力であるということを、私たちは68年前の敗戦の経験を通して、身にしみて感じました。けれども、今の安倍政権は、国会で通そうとしている「特定秘密保護法」によって、再び戦争に繋がる道に一歩踏み出そうとしているように思われます。憲法を変えることも視野に入れながらです。死を選ぶか、命を選ぶか、その瀬戸際に私たちは立たされているように思います。この選択は、政治状況だけでなく、私たちの日常の営みにおいても、様々な悩みや困難との遭遇の中で、問われているのではないでしょうか.そういう時に、今日の使徒言行録が説教のテキストとして与えられました。このところを読んで、聖書の神は命の神であるということを改めて思わされました。「神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです」(37節)と言われています。イエスは、死から神によって起こされて、朽ち果てることがなかったというのです。

・そのようなイエスを信じる者として、現在さまざまな形で、その命と生活が脅かされている人々の存在を見失ってはなりません。私たち自身もそのような者の一人と言えるかも知れません。朽ち果てることのないイエスの復活の命とは、どのような命なのでしょうか。その命の道を教えくださいと祈らざるを得ません。そのような中で、死に脅かされている一人一人の大切な命に寄り添い、その一人一人の命が、朽ち果てることのないイエスの復活の命によって支えられ、生かされて在ることを信じ、命の主であるイエスを信じて、共に歩んでいきたいと思います。