なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(48)

「光を見る」マタイ9:27-31、2019年9月1日(日)船越教会礼拝説教

 

  • 大分前に連れ合いとレストランで食事をしていたましら、隣の席に男女二人の方がいらっしゃいました。その一人の男の方は白杖をもっていましたので、目の不自由な方だと思われます。女性はレストランのウエイターとのやり取りからしますと、メモでやり取りをしていましたので、目は見える方ですが、言葉の不自由な方だと思われます。多分女性がメモでやり取りしていましたので、男性は言葉も不自由なのでしょう。男性と女性はお互いの手で確認し合ってメニューを選んでいました。そしてメモで女性がウエイターとやり取りをしていました。ぼくたちは既に食べ終わっていましたので、女性とウエイターがやり取りをしているところで、そのレストランを出てきました。目が不自由であり、言葉が話せないということが、生活の上で非常なハンディになっているということを、目の当たりにしました。
  • アメリカの視聴覚障がい者教育の専門家、トーマス・キャロルは、失明することによって失うものを次のように分析しています。
  • I 心理的安定に関する基本的な喪失―(1)身体の完全さの喪失、(2)残存感覚に対する信頼性の喪失、(3)環境との現実的接触の喪失、(4)視覚的背景の喪失、(5)光に恵まれた状態の喪失、
  • II 基本的技術の喪失―(6)移動能力の喪失、(7)日常生活の諸技術の喪失
  • III 意志伝達能力の喪失―(8)文書による意志伝達能力の喪失、(9)会話における意志伝達の能力の喪失、(10)情報の進歩に対応する能力の喪失
  • IV 観賞力の喪失―(11)楽しみを目で見ることの喪失、(12)美的なものの観賞力の喪失、
  • V 職業経済的安定の喪失―(13)リクリエーションの喪失、(14)職業人としての経歴・職業上の目標・就職の機会の喪失、(15)財政的保証の喪失、
  • VI 結果的に全人格に生じる喪失―(16)人間としての独立心の喪失、(17)社会的存在であることの喪失 (18)人目につかないですむことの喪失、(19)自己評価の喪失 (20)全人格的構造の喪失。
  • キャロルのこの分析は、視覚障がい者リハビリテーション・プログラムを作る基礎データとしてのもので、失われたものを明らかにすることによって、それを取り戻すための方策も生まれてくるという考え方に基づいたものでした。しかし、視覚障がい者の方が、目が見えないことによって、ここに掲げられている20項目のものを失うとすれば、生きる困難さがどれほどのものなのかと思わざるを得ません。
  • (以上、『主の肢々として~障害者と教会~』33-34頁より) 
  • 先ほど司会者に読んでいただいたマタイによる福音書の箇所は、「二人の盲人をイエスが癒された」物語です。実はマタイに福音書には、ほぼ同じ物語が20章にもありますが、なぜマタイが二つのほぼ同じ物語を福音書に入れたかは、ここでは触れないでおきます。今日の物語そのものに注目していきたいと思います。今キャロルの分析を紹介しましたように、目が見えないということが、人が生きていくうえで如何に大きく重い障がいであるかがわかるでしょう。それだけに目が見えなかった人がはっきりと見えるようになるということが、その人にとってどれだけ大きな喜びであるかということを思わされます。
  • 以前名古屋にいたときに、目を手術して、しばらく両眼眼帯をされて、光を失った生活を数日経験した方が、眼帯がはずされて、それまで暗闇だったのに、目を開いて光が入ってきたときの感動を語ってくれたことがあります。
  • 二人の盲人は、イエスが出かけられたとき、叫んで「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらイエスの後をついてきました。イエスが家に入られると、盲人たちがイエスのそばに寄ってきたので、イエスの方から「わたしにできると信じるか」と声をかけられました。二人は、「はい、主よ」と答えます。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになったというのです。
  • マタイによる福音書8章、9章は、さまざまなイエスの奇跡物語が集められているところで、その最後のところにこの二人の盲人の癒しの奇跡物語が置かれています。しかも二人の盲人がイエスに叫んでいった「ダビデの子」というイエスの呼称は、明らかにメシア的尊称の一つです。しかも、この「ダビデの子よ」というイエスの呼称は、ユダヤ人が期待し、信じていた政治的なメシア以上の者、つまり目の不自由な人の目を開ける方として語られています。救済者として人間の一番厳しい、その人の持っている傷み悲しみに触れ、自らそれを負うことによってその人を痛み悲しみから解放していく方なのです。
  • マタイによる福音書では、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、今日の二人の盲人も、カナンの女も(15:22)、先ほど申しましたもう一つの「二人の盲人」も(20:31-32)、イエスに呼びかけています。そのことは、イエスは、イザヤ書35章に預言されている、「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄雄しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』という時がイエスによって到来したことを意味しました。イザヤ書35章では、続いてこのように語られています。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が涌きいで、荒れ地に川が流れる。・・・・」と。
  • 「見えない人の目が開く」ということが、神の救いが到来した時に、真先に起こると言われているのです。
  • マタイによる福音書の記者は、この二人の盲人の癒しの物語におきまして、イザヤ書35章の預言がイエスにおいて成就実現したことを語っているのではないでしょうか。
  • 実はマタイによる福音書では、「見えない人の目が開く」ということは、今申し上げたように文字通りに受け止めると同時に、比喩的にも考えられていて、イスラエルのファリサイ人や律法学者は、盲人を癒すダビデの子に対して目の見えない者となるのです。23章の「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」箇所に、「ものの見えない案内人、あなたがたは不幸だ」と、16節から26節にかけて、「ものの見えない者たち」と繰り返し、律法学者、ファリサイ人が非難されています。
  • これは目が不自由であるということが、一つのマイナスとされています。マタイでは律法学者、ファリサイ人が「ものの見えない者たち」と非難されているのです。ここでは比喩的に目が不自由であるということが用いられています。
  • 私はこのような用い方を好みません。聖書に書かれていることを、そのように言うのはけしからんと思われ方もいるかもしれませんが、私は聖書の諸文書は時代の書物だと考えていますので、批判的に読む必要があると思っています。このマタイの目の不自由な人を比喩的に用いる用い方は賛成しかねます。
  • おそらくこれは、キリスト教徒とユダヤ教徒の対立というマタイ福音書の状況から来ていると思われます。一種の党派の考え方と言えます。自分たちのグループが他のグループより優れている、そういう党派の優位性が語られていると思われます。今日でも他の宗教と比べました、キリスト教が優れていると弁証する人もいますが、私はそのような比較を好みません。むしろイエスにおいて起こった出来事そのものを、私たちが感動を持って受け止めて行く、それだけでいいのではないかと思います。
  • ですから、この物語も目の不自由な人が奇蹟的にイエスによって癒された、その喜び、そしてそれが、神がやってこられる時に、先ず第一に私たちの中に起こる。そしてイエスが実際にそれを実現されている。そういう方としてイエスが私たちの中に来られたのだということを、ここから読み取るだけで十分ではないかと思います。
  • さて、今日の船越通信にも先日開かれた、神奈川教区で福祉小委員会主催による「障がい者と教会の集い」について少し書いておきました。この集いでは障がい者と教会に集う人々が交流することが一つの大きな目的として設定されています。私もこの集会には二十数回参加しています。視覚障がい者、身体障がい者、あるいは精神障がい者、沢山の方々にこの集会で出会いました。そしてそれぞれがその時々に自分の傷み苦しみをお話してくださいました。何回も何回も目が開かれる経験をしてきています。自分では分からない、本人の言葉を通してしか分からないことに触れました。特に心に病を持つ方がどういう風な思いを持っておられるかというのは、ある面で健康な者の想像を越えるものがあることを、しばしばこの会で経験させられました。
  • この集会は、今もそうですが、長い間藤沢ベテル伝道所の飯塚光喜先生が支えてきましたが、先生は途中で失明された方です。この会で時々問題になりますことは、先ほどの二人の盲人の物語とも関係するのですが、目が不自由であるということは一生かかかえていかなければならいということです。これは治らない。そういう問題提起です。福音書では目が開かれているけれども、現実には目の不自由なまま一生過ごさなければならない。これは一体どういうことなのか。そういう問いかけです。
  • 私はこの問いかけを受けるたびに、ここにある重い問題を受け止めなければならないと思っております。このような福音書の物語は、そういう問いに対してどういう風な道を開いてくれるのでしょうか。
  • 一生目の不自由さをかかえながら生きていかなければならない方にとっても、この福音の喜びが伝わっていくということがあるとすれば、それはどういう姿をとるのでしょうか。目の不自由な方が、その不自由さの故に起こる様々な障がい、生活の不安、重荷を、自分ひとりで負って孤独な道を生きるのではなないことに気づく時ではないでしょうか。可能な限り目の不自由な方の重荷を共に負いながら一緒に考え、歩む人が、自分の傍らにいること。この解放の出来事を信じて、共に歩む人と共に、希望を失わずに生きていくことができること。そういう人が目の不自由な人の傍らにいることではないでしょうか。そしてその人こそが、この福音書の物語の中では、イエスその人だったのではないでしょうか。そして私たちも、イエスに倣って、どんなことがあっても離れないで目の不自由な人と共に共に歩んでいくとき、このイエスの解放の福音が、そこに響いているのだと思うのです。ですから、飯塚光義先生の問いは、一生目の不自由さの中でいきなければならない方と共に、その重荷からの解放を求めて、私たちが共に生きていくかどうか、その途上のあり方そのものが私たちに問われているのではないかと、いつも思っております。
  • そういう意味でこの夏の集いにはできるだけ出席して、問いかけを受け止め、新たにその時々に目の不自由な方々や心に病を持つ方々が、どのような痛みや苦しみ抱えながら生活されているのかというその言葉に耳を傾けたいと思って来ました。この集会は二日間に過ぎませんが、その生活を通して感じることを大切にしながら、私たちが歩んでいく時に、このイエスの癒しの物語が、ただ理想的な、ありえない出来事だとうのではなく、この解放に向かって共有していく道があるのではないかと思っています。
  • キャロルが分析した喪失も、それによって障がいを持って生きている方々一人一人への理解がさらに深くなっていき、少しでもその喪失の部分が少なくなり、生きやすくなっていく。目が見えない現実は変わらないかも知れませんが、その重荷を抱えながら、本当に人間が自由になり解放されていることを信じて歩んでいく。そういう道が示されているのではないでしょうか。
  • ですから、この二人の盲人の物語は、イエスによって二人の目が開かれて、万々歳だということだけではなく、今申し上げた問いかけも含まれているのではないでしょうか。そのことをこの二人の盲人の癒しの物語から思い起こしたいと思いました。許され可能な限り、私たちはそれぞれの場で、神の国をめざしつつ、目が不自由な方々が少しでも生きやすい社会になっていくように努めていきたいと願います。