なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(89)

8月9(日)聖霊降臨節第11主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃 美 歌  203(今日こそ主の日なり)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-203.htm

⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編78編23-39節(A⇒司会者 B⇒会衆)

(讃美歌交読詩編86頁)頁)(当該箇所を黙読する)

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書20章29-34節(新約39頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌   371(このこどもたちが)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-371.htm

 

説教 「深く憐れんで」 北村慈郎牧師

祈祷

 今日のマタイによる福音書の「二人の盲人をいやす」イエスの物語は、9章27-31節にほとんど同じ形で記されています。ちなみにそのところを読んでみます。

新共同訳の表題も全く同じで、「二人の盲人をいやす」です。「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人の目が見えるようになった。イエスは、『このことは、だれにも知らせてはいけない』と、彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外に出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた」。

 この二つの物語を比べて読んで見ますと、9章の方がイエスの通常の奇跡物語に近いように思われます。9章の方では、「憐れむ」ということばは、二人の盲人の叫びの中で一回出てくるだけです。しかし、今日のところでは、3回も出てきます。30節、31節、34節です。

 また、9章の方では「あなたがたの信じているとおりになるように」というイエスの言葉があって、二人の盲人は見えるようになります。今日のところには、このイエスの言葉はありません。

 「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という二人の盲人の叫びは、一度群集が叱りつけて黙らせようとします。しかし、二人の盲人はますます「主よダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだというのです。この「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という盲人の叫びが二度記されています。そして「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、『何をしてほしいのか』」と言われます。「二人は目を開けていただきたいのです」と言います。すると、「イエス深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐに見えるようになり、イエスに従った」と言うのです。

 主よ、憐れんでくださいは、キリエ・エレイソンです。説教の後に歌う讃美歌21―305番の「イエスの担った十字架は」には「くりかえし」の部分に、「キリエ・エレイソン(主よ、あわれみを)、死のとりこから、よみがえらせてください」という歌詞があります。キリエ・エレイソンとは、「死のとりこから、よみがえらせてください」という、自分の力ではどうすることもできない絶望の中からの叫びです

 エスの時代の盲人は、絶望のどん底を生きるしかなかった人たちです。ヨハネによる福音書の9章の生まれながらの盲人の物語には、弟子たちがイエスに尋ねて、「この人は生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と言っています。イエス時代のユダヤ社会では、目が不自由であるというハンディの他に、罪人というレッテルを貼られて、人々から疎外されていました。ですから、ヨハネ9章には、生まれつき目の見えない人は、道ばたで物乞いしていたと言われています。今日のマタイによる福音書の記事の中にも、30節に二人の盲人が道端に座っていたと記されています。これは道端で物乞いしていたことを意味していると思われます。

 こういう聖書の記事には、目の不自由な人が特別に「死のとりこ」になっているというニュアンスがあるように思われます。しかし、目が見える人が「死のとりこ」に陥っていないわけではありません。

 目の不自由な人が絶望的な状況の中で「死のとりこ」になっているのは、そうさせている人たちがいるからです。もし目が不自由であるということが、その人の個性の一つとして本人も、周りの人も、その社会のすべての人が認めて、共に生きることができるとするならば、どうでしょうか。目の不自由な人は、確かに目が見える人とは違って、見えないという不自由さを抱えて生きなければなりません。けれども、人々と社会から罪人として疎外されることなく、共に生きる仲間として、分かち合い・支え合いの中で、道端で物乞いして生きる必要はなかったのではないでしょうか。

 しかし、イエス時代のユダヤ社会では、目の不自由な人は絶望の中で道端に座って物乞いしながら生きていかなければなりませんでした。目の不自由な人がそのように生きなければならなかったのは、その人の自己責任と言うよりは、目の不自由な人と同時代を生きる他者がそうさせていたからです。目が見えないという負い目を運命として、目の不自由な人にのみ背負わせ、しかも汚れた罪人として社会から疎外し、道端で物乞いしなければ生きていけないようにさせているのは、目の不自由な人自身ではないのです。目が見えて、健康が与えられてその社会のマジョリティー(多数派)として生きている人たちなのです。

 そのようなマジョリティーの人々の中にある、自分さえよければという闇を問わなければなりません。そのような闇を内にもっていながら、その社会のマジョリティーとして、あたかも自分は何も悪いことはしていないと自らの正当性を盾に生きている人たちです。私自身の中にも、あからさまにではないとしても、このような人間の闇がないとは言えません。

 そのように考えてみますと、目が見えようと見えまいと、私たちが自分自身と真正面から向かい合っていくならば、絶望的な自分自身に出会い、主の憐れみによるしか生きられないことに気づくのではないでしょうか。

 『初めに闇があった』というジョン・ハルという中途失明の方が書いた本があります。ジョン・ハルは、中途失明という経験を通して、目が見えなくなって聖書とがっぷり組み合った結果、自分が(目が見えないことは)「一種の贈り物であり、・・・目が見えようと見えまいと、自分たちが憐れみ深い神の御手にあることを知るのです」という深い告白に導かれた、と記しています。

 この方は、聖書は目の見える人によって書かれた書物であると言っていますが、そのことを踏まえた上で、聖書との格闘の末に目の見えないことを一種の「贈り物」としてとらえるようになったと言うのです。そして「目が見えようと見えまいと憐れみ深い神の御手にあることを知る」と言っているのです。

 「憐れみ深い神の御手にある」というのは、目が見える人も、見えない人も、その全存在が憐れみ深い神の御手にあるということです。キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)は、その憐れみ深い神の御手を祈り求める叫びと言えるでしょう。

 私の名古屋時代に、キリエ・エリソンがどうしてもいやだという人がいました。自分が責任を持って生きないで、何か、神さま任せに思えたようです。その頃は、私もその人に同調する気持ちがありました。ですから、言葉だけが浮いているキリエ・エレイソンはしっくりしませんでした。

 しかし、よく考えれば、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ二人の盲人の叫びは、私たち自身の叫びではないかと思えるようになりました。

 そういう二人の盲人の叫びをシンボリックに解釈して、自分自身に当てはめることは適切ではないかも知れません。そういう聖書解釈を、私はどちらかと言えばしないできました。しかし、≪ジョン・ハルが、中途失明という経験を通して、目が見えなくなって聖書とがっぷり組み合った結果、自分が(目が見えないことは)「一種の贈り物であり、・・・目が見えようと見えまいと、自分たちが憐れみ深い神の御手にあることを知るのです」という深い告白に導かれた≫という証言によって、「主よ、憐れみたまえ」と叫び祈ることを、目の見えない人も見える人も共有できるように思うのです。

 目の見える人の絶望は、目の見えない人の絶望とは違うかもしれません。目の見える人の絶望は、目の見えない人に物乞いを強いる加害者としての自分への絶望と言えるかも知れません。相互扶助ではなく自分さえよければという利己主義に陥って、他者を傷つけ、場合によっては死に追いやってしまう自己中心という自らの闇への絶望です。そういう自分への絶望があれば、目の見える人もまた、キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)と祈る他ないでしょう。

 目が見える人も見えない人も、すなわち、すべての人が憐れみ深い神の御手にあるということは、そういう憐れみ深い神にあって私たちすべてが、また自然も人間以外の生き物もすべてが生かされているという現実が、私たちの深いところにあるということを意味します。信仰によって私たちは、暴力による分断と破壊が進行しているこの時代と社会の中にあっても、私たちすべてが憐れみ深い神の御手にあって生かされてあるこのイエスの現実を生きることへと招かれているのではないでしょうか。

 市民社会の中で比較的安定した生活を享受できることに居直って、自分のことしか考えないならば、何も「主よ、憐れみたまえ」と祈る必要がないかもしれません。しかし、私たちは市民社会という薄氷の上で生きるのではありません。その薄氷の下の大地である神の憐れみの世界に生きているのです。

 そのことを見失わないようにして生きていきたいと思います。

 特に今の日本社会は、グローバルな新自由主義経済が進行し、弱い立場の人の切り捨てが露骨になっています。東電第一原発事故のフクシマや米軍基地を押し付けられている沖縄をはじめ、契約・派遣社員・路上生活者の切り捨てにより、多くの方々の命と生活が脅かされています。それにある面で人災ともいえるコロナ感染の問題で、弱い立場の人の切り捨てがさらに加速されつつあります。

 そのような社会に巻き込まれ、取り込まれ、諦めてしまう私たちを「その死のとりこから、よみがえらせてください」、キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)と祈りつつ、それぞれ与えられている課題を担う中で、相互扶助の互いに愛し合う関係を、身近なところから創り出していくことができれば幸いです。

 祈ります。

  • 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
  • コロナ感染が拡大しています。特に沖縄は大変な状況にあります。十分なコロナ対策を施さないまま、経済優先にかじを切っている政府の責任は大きくあります。このことでまた沖縄が切り捨てられることのないように導いてください。
  • 一部の人が大変豊かになり、その他の多くの人が厳しい生活を強いられている不公平な社会の在り方を変えていくように、私たちにその力を与えてください。
  • 神さま、8月6日は広島、本日8月9日は長崎に75年前原爆が投下されました。その悲惨さは今も忘れることはできません。そのことを踏まえて、私たちはこの世界から核が廃絶されることを願っています。このことにもあなたの導きをお与えください。
  • 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌   305(イエスの担った十字架は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-305.htm

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。