なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(44)

マルコ福音書による説教(44)マルコによる福音書10:46-52、
            
・今日のマルコによる福音書10章46節以下に出てきますバルテマイという目の不自由な人は、どのような所(場所)から、エルサレムに向かってエリコの街道を受難へと進んで行くイエスに叫んだのでしょうか。マルコによる福音書には、既に学びました8章22節~26節にも目の不自由な人の物語がありました。しかし、そこでは、人々によってイエスの前に連れてこられた目の不自由な人が、イエスによって癒されたということが記されているだけで、この箇所のようにバルテマイの方から叫び続けるということはありません。イエスの一方的な奇跡行為が強調されてるのであります。とこどが、今日のバルテマイの記事では、黙らせようとする人々の静止を振り切って叫ぶ彼の叫び~「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47節、48節)~が、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52節)というイエスの言葉によって、受け入れられているのであります。

・この叫び続けるバルテマイという目の不自由な人が、どのような所からイエスとの関係を結んでいるのかを考えてみたいと思います。そのことによって、信仰とは何であり、何でないかを、私たちに明らかにしてくれるように思われるからです。

・46節を見ますと、このバルテマイという目の不自由な人は、「物乞い」であり、エリコの街道の道端に座っていたと言われています。この時代に目が不自由であるということは、ただ目に障害をもっているというだけではなくて、「罪人」であると人々から見られていました。ヨハネによる福音書9章1節以下に、生れつき目の不自由な人の記事があります。そこでは、道端に座っていたその生れつき目の不自由な人を弟子たちが見て、イエスにこのように質問したことが記されています。「ラビ(先生)、この人が生れつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(11:2)と。この弟子たちの質問には、生れつき目の不自由な人が罪人であると見られていたことが示されています。この「罪人」という規定(レッテル)は、その人の罪意識というよりも社会的な偏見・差別と考えられます。ですから、バルテマイの立っていました所は、障害と差別と飢えによって彼の命が抑圧(押しつぶ)されているところでした。

・バルテマイがその自分の置かれた状況をどのように受けとめていたについては、ここには何も記されていません。ただ、今自分の前を通り過ぎようとしている一群の人々のなかに、「ナザレのイエス」がいることを聞いて、「叫びだす」のです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。これは絶望から発せられた叫びではないでしょうか。

・このバルテマイが「ナザレのイエスだと聞いて」叫びだしたと言われています。そこには、イエスが絶望的な状況に置かれたひとりの人間の中に、その絶望的な状況から立ち上がらせる何物かを呼び起こす方であったことが示されているように思います。しかも、バルテマイの心底から挙げられた叫びを虚しくかれのところに返すのではなく、その叫びに答えて、彼を癒すのです。

・バルテマイの立っていた場所は、彼にとって「死」と言い換えることができるような場所ではなかったでしょうか。バルテマイにとりまして、イエスとの出会いは、死からの甦りに等しい出来事だったと言ってよいでしょう。単なる自分の今ある生の補強ではなく、死んでいたような自分の生の回復です。救いです。

・このバルテマイという目の不自由な人とイエスとの出会いの記事の前には、前回学びましたゼベダイの子ヤコブヨハネとイエスとの問答がありました。内容的には、この二つの物語は全く対照的です。けれども、形の上では、二つはよく似ています。どの点が似ているかといいますと、二つの物語共、登場人物がイエスに向って願いをぶつけているのです。そして、イエスが「何をしてほしいのか」(10:36、51)と言います。そこで二人の弟子は、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(10:37)と願いました。バルテマイは、「先生、見えるようになりたいのです」(10:51)と願っています。そして、二人の弟子たちの願いはイエスに拒絶され、バルテマイの願いは受け入れられたのです。同じ人間の願いでありながら、この両者の願いには質的な違いがあります。

・弟子たちの願いは、自己栄光化といいましょうか。この世の生活よりも来るべき世において、自分はどうなるかということが、重大に考えられていました当時のユダヤ人として、弟子たちの願いは、ある意味では当時のユダヤ人が一般的に持っていた願望と言えるかも知れません。そのような弟子たちの願いに対して、イエスは「あなたがたは自分が何を願っているか、分かっていない」と言われたのです。

・イエスは、山上の説教の中で、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる」(マタイ6:7・8)と父が自分の子供に良い贈り物をすることを例にとって語っています。私たちに対して、イエスは真剣に求めよ、と言われます。しかし、何を求めよ、と言うのでしょうか。この二人の弟子たちのように、自分自身がより高い地位につけるように、病気がよくなるように、生活が楽になるように、ということでしょうか。権力を持つ者と、そのような支配者に抑圧されている者、病人と健康な人、貧しい人と富める人が、現に存在する世界の矛盾・不条理をそのままにして、自己の救済を叫び求めよと、イエスは言われるのでしょうか。もしそうであるならば、キリスト教信仰も、病気治癒や商売繁盛の祈願としてある民間信仰やシャ-マニズムと大同小異ということになりはしないでしょうか。

・そのような「宗教」は、社会的安定がくずれて、混迷の時代に繁盛します。そのような宗教は、現代社会の矛盾が生み出す人間抑圧を宗教的に補完することになります。しかし、イエスが求めておられるのは、このような人間の不安・恐れ・欠如感が、何かのバネになったとしても、人間が自分で考えているような充足を期待するようにというのではありません。父が自分の子供に与えるような良い贈り物が、必ずしも子供が期待しているものと一致しないということは、私たちが肉親としての親子の関係において経験するところです。子供の生活経験を超えている視点を父親・母親は持っています。良き父・母は、子供のいいなりにはなりません。子供の願いが子供自身をダメにしてしまうということが、しばしば起こり得るからです。その意味で、良き父・母は子供にとっては、しばしば否定の存在となります。しかし、子供がそのような良き父・母によって自己確認をしていくとき、両者には信頼関係が成立しているのです。父・母の否定は、子供にとって否定を媒介にした肯定としての自己発見であるからです。弟子たちの願いに対して、イエスが「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われたことの中には、この子供と父・母とのくいちがいを、イエスが弟子たちとイエスご自身(父なる神)との間に見ていたのでしょう。

・では、あのバルテマイの願いはどうでしょうか。弟子たちの願いと基本的にどこが違うのでしょうか。私は、先程も言いましたように、バルテマイは絶望の中から叫んでいると思います。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。これは、一人の人の信仰告白と言ってよいでしょう。このイエスの呼称は、メシヤ的呼称としてユダヤ人の中でごく親しまれたものです。ユダヤ人にとって、かつて最も繁栄したダビデ王の子孫からメシヤ(救い主)が現れるという信仰です。民族主義的色彩の強い呼称ですから、初期キリスト教の中ではイエスに対してメシヤのギリシャ訳である「キリスト」ないし「神の子」という呼称が広く使われるようになりますが、ユダヤ人でありますバルテマイにとっては「ダビデの子」という呼称が身についていたのでしょう。バルテマイは、「ナザレのイエス」に出会って、「ダビデの子イエスよ」と呼び掛けたのです。悲惨な状況のただ中で、自己とこの世界によっては完全に立てないでいるバルテマイが、イエスに向って「わたしを憐れんでください」叫んだのです。

・この叫びを挙げたバルテマイは、その時、イエスを自分の最も近くに立ちたもう方として把らえたのではないでしょうか。彼を抑圧している厚い壁が、彼を孤独に追いやり、絶望に落としめているものを超えて、イエスが自分と共に立って下さるに違いない。自分のことをイエスはご自分のことのように受けとめていてくださる。そのイエスとの共生によって、バルテマイは生を回復するのです。「まず神の国と神の義を求めなさい」。そうすれば「衣食住は添えて与えられる」という野の花・空の鳥の説話を思い起します。バルテマイは、自己の救済を求めました。その自己の救済が、即「神の国と神の義」への願いなのです。

イザヤ書35章の予言は、そのことをはっきりと物語っています。「心おののく人々に言え。/「雄々しくあれ、恐れるな。/見よ、あなたたちの神を。/敵を打ち、悪に報いる神が来られる。/神は来て、あなたたちを救われる。」/そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。/そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。/口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ35:4-6)

・バルテマイは自己の救済を願いました。その願いが神の到来によってもたらされる終末の成就であったのです。そのような願いを大胆に叫び続け、そのような願い求める人々共に立ち(共生)、その願いの実現成就を待ち望み続ける者でありたいと思います。