なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(55)

         船越通信癸毅機  。横娃隠嫁4月29日          

・4月22日の日曜日は、礼拝後昼食を共にし、その後2012年度船越教会定期教会総会が開催されました。現住陪餐会員21名中10名の出席で、総会は成立しました。組織会を経て、2011年度活動総括と諸報告は訂正付加意見を反映した上で承認。2012年度基本方針および活動計画、2011年度会計決算報告、2012年度会計予算を承認し、役員選挙を行いました。役員は4名選挙ですが、今回は同数の決選投票を経て、4人が選出されました。船越教会の役員選挙は、総会での本選挙一本ですので大変明快です。私は、役員選挙は総会での本選一本が良いと思っています。ただそのためには会員同士の交わりがある程度深くないと、お互いの状況が分からないままに、誰から見てもこの人は無理ではないかという人を選んでしまうということもありますので気をつけなければなりません。総会での会員による役員選挙を通して神の選びを信じる信仰を教会は大切にしてきました。私はこの信仰を失ってはならないように思います。もちろんそれは役員会に他の会員が一切を委ねるということではなく、批判すべきことがあれば遠慮なく批判し、役員も他の教会員も一緒に神のみ心のあるころを求めていくことではないでしょうか。新しい役員の方1年間よろしくお願い致します。

・4月26日には私の裁判の第一回口頭弁論が東京地方裁判所103号法廷で行われました。私の原告意見陳述や裁判後の報告集会での世話人代表の関田寛雄牧師の挨拶、訴訟対策委員会代表の渡辺英俊牧師の「教団における北村裁判の意義と目的について」は私のブログ(なんちゃって牧師の日記)に掲載しましたので、そちらをご覧ください。傍聴には予想を越える多くの方が来て下さり感謝しています。船越教会のみなさんもありがとうございました。裁判後に行われた報告集会にも多くの方が参加して下いました。特に北海道、九州、岡山、神戸、大阪、静岡、群馬からも傍聴に来て下さいました。もちろん神奈川、東京、埼玉からも。98名の傍聴席に入り切れず、裁判の途中で50人ほど入れ替わったほどでした。

      『マルコの福音書』を読んで  S     (前回に引き続き)

・洗礼者ヨハネの後に来ることになっている「ヨハネよりも優れた者」とは、「聖霊において洗礼を行う者」です。この言葉の直前に、「イエスの洗礼」が記されています。「水の洗礼」と「聖霊の洗礼」が行われています。そして、この後、イエスの活動の物語が語られるのです。このために、「ヨハネの後に来る者」とは、イエスのことだと思ってしまいます。しかし、イエスは、「聖霊の洗礼」を受けた者であり、「聖霊の洗礼」を行った者ではないのです。では、「聖霊の洗礼を行った者」とは誰なのか、それは「神」であるというになるのです。洗礼者ヨハネの後に、神が来る、とヨハネは言っていたことになるのです。しかし、洗礼者ヨハネの言葉の立場からは、「来た」のは「神」であって、「イエスが来て、活動する」のほあ、実は「神が来て、活動する」ということになるのです。しかし、イエスは、神と同然なのだ、という立場を「マルコ福音書」が主張しているかは、微妙です。

・したがって、注意すべきことは、「マルコ福音書」は「神の活動の物語」だと言っていいのでしょう。

・もう一つ注意すべき点は、「イエスの洗礼」の話に、すでに見て取れるように、イエスは、洗礼者ヨハネの「水の洗礼」を受けたのですから、イエスのそばにヨハネがいます。また、洗礼者ヨハネのところには多くの者たちが「水の洗礼」を受けるために集まってきたと直前の話に記されていますから、「イエスの洗礼」の場面も、イエスおよびヨハネ以外にも、幾らかの者たちがいたと思われるのです。しかし、神からの介入によって、「神との直接のつながり」が生じたのは、イエスだけなのです。神との関連で特別な立場にあると思われる洗礼者ヨハネにも、このことは生じません。他の者たちは、「水の洗礼」を受けるところまではイエスと同じ状態です。しかし、彼らにも、このことは生じないのです。「イエスだけが、神に選ばれている」ということになるのです。神は、すべての者を選んだのではなく、イエスだけ選んでいるのです。

・なぜイエスだけが、神に選ばれて、他の者たちは選ばれないのか、とおいうことなのです。しかし、イエスは他の者たちに比べて特に何の特徴もないのですから、「イエスは、神が選んだから選ばれたのであって、他の者たちは、神が選ばなかったから選ばれなかった」というのでしょう。「神に選ばれる」ということは、人間にとって、この上なく高い価値のあることだと思われます。「選ばれない」ということは、多くの場合かなり苦しいことなのです。この苦しみは、「選ばれる者」と「選ばれない者」との間の境界に対応しています。部分的なものでしかない「神の選び」の活動は、きわめて苦しい区分を人間の間に生じていることになります。

・イエスは、『聖霊を与えられる』「神の子とされる」ということで、神に選ばれアのです。「マルコ福音書」の物語の中にそれほど目立たない者たちには、イエス同様に「神に選ばれた」ということも考えられますが、「マルコ福音書」の物語では、はっきりとした登場人物の中で、イエスのように、「聖霊が与えられる」「神の子とされる」ということになり、「神に選ばれた」ということになっている者は、他には一人もいません。したがってイエスは、「マルコ福音書」の物語では、「神に選ばれた」ということになっている唯一の者なのです。

・「マルコ福音書」は、「神とつながり」をもった最初の目立った者であるイエスの物語なのです。「イエスについての情報」について、いろいろなことを一挙に記すことができます。また、「神とのつながりのある者」がどのような活動を行うことになるのか、実例の物語なのです。「マルコ福音書」は「第二世代以降のヘレニストたちのための教科書のようなもの」と言えるでしょう。