「信の力」 マタイ福音書8:5-13、2019年6月16日船越教会礼拝説教
●今日のマタイ福音書の物語は、イエスが拠点としてガリラヤで宣教活動されたと思われるカファルナウ
ムという町での出来事であります。
・このカファルナウムはガリラヤ湖北西岸の町で、漁港でもありました。
・共感福音書の伝承では、ペトロとアンドレアスの故郷(マコ1:29)でもあります。
・また、カファルナウムはローマ式に組織された(ガリラヤの領主)ヘロデ・アンティパスの軍隊にとっ
ての、重要な駐屯地の一つ(マタイ8:5-13並行)でもありました。
(以上岩波聖書解説より)
●今日の物語に登場する「百人隊長」は非ユダヤ人である『異邦人』であったと思われます。
・マタイ福音書の物語では、この百人隊長が、自分の病気の僕のことで、直接イエスに癒しを懇願してい
るのであります。
●しかし並行記事のルカ福音書の物語では、百人隊長は直接イエスに懇願してはいません。ユダヤ人の長
老を介してイエスに取り次いでもらったことになっています。
・ルカの物語では、その長老たちがイエスにこう語ったと記されています。「あの方は(百人隊長)、そう
していただくのにふさわしい方です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれました」(ル
カ7:4)と。
・ルカがこのようにユダヤ人の長老たちを介して百人隊長の懇願をイエスに伝えたのは、イエスの救いが
ユダヤ人から非ユダヤ人(異邦人)へともたらされるというルカ特有の考え方からであろうと言われていま
す。
●マタイ福音書にはこのようなユダヤ人の長老たちの執り成しはなく、百人隊長の直接の懇願に応えて、
「イエスは『わたしが行って、いやしてあげよう』」言われたというのであります(8:7)。
●同じマタイによる福音書の中には、非ユダヤ人であるカナンの女が、悪霊に憑かれて苦しんでいる娘か
ら悪霊を追い出してくれるようにイエスに頼んだ物語があります(マタイ15:21-28)。
・その中で、イエスはカナンの女の懇願に最初は「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか
遣わされていない」と、冷たく答えたと記されています(15:24)。
・けれども、このカナンの女の執拗な懇願にイエスはその女の娘の病気を癒されました。
・このカナンの女の場合と今日のマタイ福音書の物語の百人隊長の場合における、イエスの態度が違うの
はどうしてなのでしょうか。それは分かりません。とにかく、今日の百人隊長の懇願に対してイエスは自
分から積極的に行動を起こそうとされたのです。
●「しかし、それに対する百人隊長の応答は、驚くべきものであります。
・イエスが百人隊長の懇願に対して、『わたしが行って、いやしてあげよう』と言われたのですから、百
人隊長は、すぐに「どうぞよろしくお願いします」と言って、イエスを自分の家に迎え入れてもおかしく
ありません。百人隊長は、病んでいる百人隊長の僕が癒されることを切実に願っていたのですから。で
も、百人隊長はそうしませんでした。
・『わたしが行って、いやしてあげよう』と言うイエスに、百人隊長はこう言ったのです。<すると、百
人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。た
だ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者
ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば
来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」>(マタイ8:8,9)。
●この自分の屋根の下にイエスをお迎えする資格がないという百人隊長の告白には、三つの意味合いが込
められているように思われます。
・一つは、イエスへの配慮です。ユダヤ人であるイエスが、非ユダヤ人である『異邦人』の百人隊長の家
に入ったとなると、その汚れを身に受けるという律法の規定に基づいて、それは禁じられていることなの
で、イエスに律法違犯を強いることになると。
・二つ目は、自分の限界についての謙虚な自覚も、その言葉によって百人隊長は言い表しているのではな
いでしょうか。
・三つ目は、それに加えて、イエスの言葉に対する絶大なる信頼を表白している点です。
・そういう意味で、この百人隊長の告白は驚くべきものです。(以上高橋三郎より)。
●「たたひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒されます」(マタイ8:8)。
・新共同訳の「ただひと言おっしゃってください」は直訳しますと、「ただ言葉をもってお語りくださ
い」(高橋)、「ただ言葉で仰言って下さい」(佐藤研・岩波訳)になります。
・そのことによって、このマタイ福音書の物語は奇跡物語でありますが、マタイがいかに言葉の威力に思
いを寄せていたかが分かるところであります。
・イエスの言葉が癒しを起こすのです。
●このような百人隊長のイエスの言葉への信頼は、彼の軍人としての経験に裏付けられていたと言われま
す。
・「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きます
し、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりします」
(8:9)。
・つまり、「百人隊長は軍隊において、上官の命令は必ず実行されるという経験的事実に基づいて、イエ
スの命令もまた必ず実行される、と信じたのであります」(高橋)。
●滝沢克己さんは、この部分についてこう言っています。
・「こういうところを読みますと、これだから、キリスト教はやはり、イエスも駄目、と。/第一、軍隊
の命令・条件に従うということを、こんなに大変なことのように言っている、えらいことのように言って
いるというのは、これはやはり駄目だ、という風に現代の民主主義者・自由主義者は考えるでしょう。/
ところが、よく読んでみますと、この百人隊長は、自分にそういうことができるということに驚いている
わけです。/だから、普通の部隊長とか、分隊長とかいうような人は、自分の命令に部下がすぐ従うとい
うことが、これは大変なことだと、不思議なことだという風に驚くことはないのです。ところが、この百
人隊長の言い方は、日常おこっていることだけれども、それに、どこかこう、驚いている感じがありま
す。/こういうことが、人間の間で起こるのですから、こういうことが人間の世界に現に起こっているの
だから、あなたがわたしの僕を直すなどということは、言葉一つでできます、ということです」。
・神と人との距離は、「そこに何者も入ることができないほどに、近い。ところが、世界の果てまで行っ
ても、(人間は)神様にはなれない。(神から)無限に遠いのです」。
・イエスは神から無限に遠い人間として、何者もはいることができないほど、神と近い人間としてこの世
を生きられたのではないでしょうか。
・イエスに会って「百人隊長がそういうことが言えたということは、百人隊長自身に、人間の存在、生き
るのは資格によらないと、驚くべきことは日常起こっているというのです。ましてあなたには、それがお
できになるということを、百人隊長が感じとったということは、その場合の百人隊長の生命の一番元のこ
と、根元のことに関する感覚、従ってその根元から現れた光と力に対する感受性が、いかに純粋で鋭かっ
たかということの徴です」
●イエスが「イスラエルの中にさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われたのは、この
ような百人隊長の中に「これほどの信仰」をイエスは見たからです。
・そしてイエスは、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」(佐藤研・岩波訳「行きなさ
い。[あなたが]信じたようにあなたに成るように」滝沢「汝の信ずるごとく、汝になれ」)(8:13)と言
われました。
・イエスは自分のところに人を集めませんでした。「汝の信ずる如く、汝になれ」といって、百人隊長を
普段彼自身の生活している場所に帰します。
・「あなたが信じたとおりのあなたになって帰りなさい」と。
●イエスの箱舟の千石イエスの言葉に「客観が動く」という言葉があるそうです。その言葉を「客観が動
けば、信仰(主観)はそのまま変わらなくでも、信仰(主観)の行為は変わりうる」と解釈している人が
います。
・百人隊長を含めて私たち人間は、日常生活をどのように送っているのでしょうか。主観と客観からすれ
ば、主観は私たち一人ひとりの才覚といったらいいのでしょうか。自分の知識と知恵です。客観は人間が
造り出した現実の社会でしょう。
・今連れ合いが癌に侵されていますので、その治療を東海大学病院で行っています。それは人間の知識と
知恵の領域です。体の正常な細胞を侵す癌細胞を、何とか体からなくそうとしているわけです。病んだ体
をもって生きている彼女がいます。現代の進歩した医療現場があります。その主観と客観の関係の中で、
彼女は治療の道を選んでいるわけです。
・体が病気になると、その人も病気に負けて、病気になることがあります。それは病気の人が絶望へ追い
やられてしまうからだと思います。しかし、神にはなれない私たちですが、神を信じていきることは出来
ます。神を信じるとき、私たちの存在は神の働きに包まれていることを感じることができます。
・私は、連れ合いが体は癌に侵されながら、めげずに一日一生を大切に生きている姿を近くで見ていて、
連れ合いの中に見えない神の御業が及んでいることを実感しています。
・主観と客観ということからすると、客観は人間が造り出した現実社会とも言えますが、同時にその客観
の根底には神の働きがあると、聖書は言うのです。その神の死を命に変える働きは何ものにも邪魔されず
に私たちの日常にも及んでいると言うのです。
・何者も邪魔することのできない近き神の御業に動かされて、神にはなれないという人間である限り、神
から遠い日常を生きている私たちですが、「汝の信ずる如く、汝になれ」というイエスの言葉に自分をか
けていきたいと思います。そのような私たちの神への信仰、信によって、百人隊長のように他者である病
める僕の癒しが起こるとすれば、そんな日常を私たちが生きることができる幸いを思わずにはおれませ
ん。
祈ります。