なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(263)復刻版

 今日も、9年前の「黙想と祈りの夕べ通信(264)」復刻版を掲載します。

 昨日は、午後4時から神奈川教区のオリエンテーションがありました。今回は、在日コリアンの歴史と

現状」というテーマで、川崎戸手教会で、同教会牧師のSさんが、多摩川の河川敷に建てられた在日の方

の家が川崎戸手教会になるまでの歴史とその後の教会の歴史や活動を、聞く者をそらさない、巧みな話術

で話してくれました。今回は、最初から参加者の申し込みが少なく、この日は総勢、講師のS牧師を含め

て、9名でした。そのうちオリエンテーション対象者は3名、委員は5名でした。少人数でしたが、戦後

この河川敷につくられた在日の方々の集落の歴史や、そこで生活してきた方々のことを想像し、また、そ

こに建てられた戸手教会の歴史とその活動に触れながら、参加者はそれぞれが思いを巡らしました。一度

や二度、現場に足を運んだからと言って、戸手河川敷で生活してこられた方のことや川崎戸手教会の営み

について解るわけではありませんが、それでも、現場に身を置くことの大切さを思わざるを得ませんでし

た。


       黙想と祈りの夕べ通信(263[-2]2004・10.10発行)復刻版
 

 先日神奈川教区の伝道委員会主催の伝道協議会が開かれました。私は今まで一度もこの会には出席して

いませんでしたが、今回は「教会形成における他宗教の問題」というテーマでユダヤ教イスラム教につ

いての発題があるというので参加してみました。発題者二人とも同僚の牧師でしたので、その発題からは

ユダヤ教にしてもイスラム教にしても外側からの考察で実際に現在のユダヤ教イスラム教がどうなって

いるのかというところまではよく分かりませんでした。私は特にユダヤ教イスラム教との関係において

は十字軍やヨーロッパのユダヤ人問題に見られるように、問題はキリスト教の側にあるように思っていま

す。ですから二人の発題よりも、開会礼拝で話された元住吉教会のM牧師の説教に興味を覚えました。司

会者に指名されて発言を促されて、私はユダヤ教イスラム教についてはほとんど分からないが、歴史的

に考えると問題はキリスト教にあるように思うと申し上げました。上記の問題と共にヨーロッパ列強の植

民地支配の尖兵としてのキリスト教宣教の問題を指摘し、M先生の説教をもう少し展開してもらえないか

と申し上げました。M先生の説教では、他宗教との関わりにおいて天皇制のような権力と絡んだ宗教には

寛容ではなく拒絶もあり得ること。自分の宗教的立場は絶対ではなく神に目を向けたいということが語ら

れていました。私は前者には共感すると言い、後者を少し展開してもらえないかと申し上げました。この

私の質問に対してM先生は答えて下さいました。それに応答する形で私は自分の考えを披瀝してみまし

た。私の考えは一つの仮説ですが、こんな風に描いていますと、以下のようなことを話しました。私はど

んな宗教も歴史的なものであって、ある面では人間の側の応答であって人間の営みに属し、そういう意味

では相対的なものである。超越的な神はあくまでも人間を超えていて人間の把握には収まらないのではな

いか。その意味ですべての宗教はみな相対的である。M先生は自分はそこまでは割り切れないとおっしゃ

っていました。

 さてこの伝道協議会の中でI牧師が滝沢克己さんが晩年目の病気で失明寸前までいったときに、お光さ

んの手かざしで視力を快復し、お光さんを大変積極的荷評価していることに触れ、癒しを大切にしている

キリスト教では癒されなかったということではないか。自分の連れ合いも滝沢克己さんと同じ目の病気だ

が、お光さんの手かざしで治るかもしれないとすれば、お光さんに行ってもよいということなのかと問わ

れました。それに対して一人の信徒の方が、私はキリスト教信仰では十字架による贖罪を大切に考えてい

る。肉体の病気は医者に任せているし、信仰による癒しを求めようとは思わない。自分は幸い健康でずっ

と来ているので、癒しを切実に求める人の気持ちは分からないが、たとえ一時的な癒しを与えられたとし

ても人間は何時かは必ず死ぬのだから、キリストの贖罪による罪と死からの救いにこそキリスト教信仰の

核心があるのだと思う。お光さんのお手当てで癒されると思うなら、いらっしゃったらどうですかと言わ

れました。私は別の意味で、I先生が常日頃障がいが治ることではなく、治らない障がいを抱えて生きて

いくことの中に神の恵みが与えられるということをおっしゃっておられることに触れ、癒しのことをその

ように言われるのはなぜなのか。お光さんの手かざしを受けたいなら、いらっしゃればどうですかと申し

上げました。後で伝道委員会ではこの私の発言が問題になったそうです。信徒の方がおっしゃるのは仕方

ないが、牧師が他宗教のお光さんの手かざしにいらっしゃったらどうですかと言うのはけしからんという

ことのようです。私は反語の意味で申し上げたのですが、伝道委員の方はそのようには受け取ってはくれ

なかったようです。