3月16(日)受難節第2主日礼拝
注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。
(イザヤ書55:6,7a)
③ 讃 美 歌 17(聖なる主の美しさと)
https://www.youtube.com/watch?v=qkN17MGxHuo
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編130編1-8節(讃美歌交読文145頁)
⑥ 聖 書 ヨハネの手紙一3:1-10節(新約443頁)
⓻ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 377(神はわが砦)
https://www.youtube.com/watch?v=ZwPu4ATmvu4
- 説 教 「神から生まれる」 北村慈郎牧師
今日は受難節第二主日です。この日の聖書日課の使徒書の聖書箇所が、先程司会者に読んでいただいたヨハネの手紙一、3章1-10節になっています。この箇所から私たちへの語りかけを聞きたいと思います。
ヨハネの手紙一の著者は、パウロの影響を受けている、パウロ以後の教会に属する人物であって、パウロの信仰理解を継承していると思われます。しかしそのパウロの信仰理解の継承は形式的で、パウロの信仰理解にある精神的苦闘は余り感じられません。パウロの信仰理解を、ヨハネの手紙一の著者はさらっと言っているように思えます。
例えば、今日の箇所の後半は罪についての記述ですが、この罪についての記述にもそのような印象を受けます。パウロが罪について書いているローマの信徒への手紙7章には、パウロの精神的苦闘が記されています。ローマの信徒への手紙7章ですが、その箇所を読んでみます。
「わたしは自分の望む善を行なわず、望まない悪を行なっている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、私の中に住んでいる罪なのです。…『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分ります。わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このようにわたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」(ロマ7:19-25)。
このような精神的苦闘を経た上で、パウロは、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ロマ8:1)と述べているのです。
もちろんヨハネの手紙一の著者も、私たち人間に罪がないとは言っていません。1章7節以下にはこのように記されています。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」(1:7-10)。
ヨハネの手紙一の著者も、自分に罪がない人間、罪を犯したことのない人間はいないとは言ってはいるのですが、その記述の背後にパウロのような精神的苦闘は感じられません。正統的な教えをさらっと述べているように思われます。
この手紙の2章19節に、この手紙が書かれた教会から去って行った異端的な教えを語る人たちの存在が示唆されています。そのところを読んでみます。「彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました」と言われています。
ヨハネの第一の手紙の著者は、この手紙が書かれた教会の人たちが、ヨハネの教会から去って行った人々の異端的な教えに惑わされないようにと戒めているのです。今日の箇所の中の7節にも、そのような戒めが記されています。「子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい」と言われているのは、そのような意味で語られています。
現在の日本基督教団の中でも正統的な信仰を保持していると自認している人々は、私のように未受洗者にも開かれた聖餐を執行する者は異端のように考えているのではないかと思います。
このような正統と異端の問題が、教会の歴史の中で異端者を火あぶりにするような悲惨を生み出したことを、私たちは忘れてはなりません。ですから、バルトが、自分の神学は最善を尽くしたものではあるが、いつでも他の人によって乗り越えられていく暫定的なものであると言っているのは、私たちにとっても大切なことです。
私たちは、真剣に聖書を読み、イエス・キリストの福音を受け止めて信仰生活をしていますが、その私たちの福音理解が絶対であるとは言えません。真剣に信じて、自分なりに受けとめたイエス・キリストの福音理解ですから、違った考え方をする人とは論争という形で批判的に対峙しますが、その中で自分の考えが変わることは十分あり得ます。私たちは人間であって、神ではありませんから間違うこともあるのです。
そのことを踏まえた上で、ヨハネの第一の手紙の著者が彼の教会の信仰者である教会員に語っている、「わたしたちキリスト者は、神から生まれた神の子である」というメッセージから、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。
ヨハネの手紙一3章1-10節で、この手紙の著者が語っていることは、キリスト者であるヨハネの教会の教会員に対する、そのあるべき姿についての勧告、勧めです。その意味で、このヨハネの手紙一の勧告は、教会に連なっている私たち自身のあるべき姿についての勧告として受け取ることができると思います。
この手紙の著者が第一に強調しているのは、イエス・キリストの内に私たちが留まっていることです。今日の箇所の少し前になりますが、2章28節で、「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」と言われている通りです。
イエスの内にとどまるということは、イエスと一体となることです。イエスの受難と十字架において、弟子たちはイエスを裏切り、否認し、逃亡しました。この裏切り、否認、逃亡はイエスから離れていくことを意味します。その意味で、弟子たちはイエスの生前はイエスと一体となって最後まで生き抜くことができなかったということです。このことは、この時の弟子たちは、まだ生まれながらの罪人として罪の支配から解放されていなかったことになります。
その弟子たちが、イエスの死と復活を通して、そのイエスの死と復活に与かることによって、聖霊の働きを通じて、罪赦された者として新たに歩み始めていきます。この復活したイエスとの出会いを通して新たに歩み始めたイエスの弟子たちは、その後イエスと一体となって、イエスと共に生きていったのではないでしょうか。
そのことを、私たちは洗礼において追体験したことになるのではないかと思います。
バルトは「洗礼の本質は再生の写しでる」と言って、このように述べています。
「洗礼において表現される、イエス・キリストの死と復活に与かることで聖霊の働きを通じて人間に生じるもの、それはまことに将来の永遠における新しい生命への『再生』であります。すなわち、神の前での人間の完全な釈明により成就され、人間のもろもろの罪の完全な赦しにより成就され、神の奉仕への人間の完全な浄化により成就されて。/この『契約』の仲間となりイエス・キリストの兄弟(姉妹)となることで、人間は実に新しく神の子に、新しい永遠の市民に生まれ変わり、したがって自分の罪から解放されて神の前で義しいもの、そして神にとって聖なるものとなります。イエス・キリストを信じ、キリストに結ばれて自らの神の子への新生を信じ、神聖な恵みを告白してイエス・キリストの教会の生きた枝となることで、人はそうなります。この全体は――すべてイエス・キリストの死と復活において成就しました、赦された罪人の口から神讃美へと至るまでなのですが――それは水の洗礼において写し出された現実です」。
ヨハネの手紙一で、著者が「わたしたちは神の子である」と言っているのは、私たち人間は、イエス・キリストによって再生されているということを言っているのです。そしてこの手紙の著者はこのように語っているのです。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現われるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を浄めます」(2節、3節)。
この手紙の著者は、未来的終末論に立って、再臨のキリストを信じているのです。そして、神の子とされた者は、神の子にふさわしくイエスの教えに従って生きていくのだと言うのです。
そして、「神から生まれた者は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です」(9節、10節)とまで断言しているのです。
先ほども言いましたように、この手紙の著者の言葉は正統主義そのもので、信仰者の精神的苦闘が感じられません。私たちの信仰は、「信じます。不信仰な私をお助け下さい」という、不信仰を自分の内に抱えた者の信仰です。
ですから、この手紙の著者のように「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです」と断言されると、そんなにはっきりと私たち人間が二分化されるのかと思ってしまいます。神の子と悪魔の子が二人とも自分自身の中にいるのではないかと思えるからです。
ですから、私たちは主の祈りを祈りつつ生きるのです。
天にまします我らの父よ、
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出したまえ。
国とちからと栄とは
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン
何の幸いか、聖書と出会い、イエスと出会い、イエスによる再生の道を与えられた私たちは、この主の祈りを祈りつつ、イエスの仲間、イエスのチームの一員としてふさわしく少しでも深く生きていきたいと思うのです。
主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!
祈ります。
神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。
今日は受難節の第2主日です。
私たちはイエスの受難と十字架を想い起す時を過ごしています。
世界には今も、イエスのように権力による不当な苦しみと死を強いられている人がいます。
神さま、私たち人間の思い上がりを打ち砕いてください。
どうかすべての人があなたから命を贈り物として与えた者として、
私たちが互いに尊重し合い、愛し合って生きることができますようにお導きください。
神さま、どうか今戦争や貧困・差別、また自然災害によって苦しむ人々を支え、助けて下さい。国や人々の支援が苦しむ人々にいきわたりますように。
世界が平和な世界になりますように!
私たちを平和を造り出す者にしてください。
他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。
アーメン。
- 讃 美 歌 356(インマヌエルの主イエスこそ)
- https://www.youtube.com/watch?v=VHJREdKf7Ks
- 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。