なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(600)

船越通信、№600  2024年1月28日(日)北村慈郎

 

  • 21日(日)は礼拝後役員会がありました。その前にHさんがお汁粉を作って来てくださり、皆でいただきました。私もお汁粉をいただくのは、は本当に久しぶりでしたので、良く味わいながらいただきました。私は善哉が好物の一つですが、なかなか善哉を食べることが出来ませんので、最近は生協に買い物に行く時には、おはぎを一個買ってきて食べています。生協のおはぎは甘みが抑えられていて、私の口に合い結構よい感じです。お汁粉をいただいた後に役員会を行ないましたが、その内容については、既に書記のNさんから1月役員会記録がメールで皆さんに送られていますので、そちらをご覧ください。この日は役員会後も私は船越教会で、翌日の22日月曜日の支援会通信第32号の発送作業の準備をしました。夕方には京急上大岡のヨドバシカメラまで行き、発送作業に必要なセロテープを購入しがてら、京急百貨店のレストラン街で食事をして教会に戻ってきました。この日支援者800名強、教職の第42総会期教団総会議員と三役・総幹事・幹事約130名、西東京教区の約90教会の宛先ラベルとクロネコヤマトのDM便のシールを封筒に貼り、22日の発送作業は、その封筒に同封書類を入れ、封をするだけにするところまで準備しました。
  • 問題は通信第32号と支援会コンサートのチラシと共に同封することにしていた、2月1日発行のキリスト新聞に掲載することになっている支援会の意見広告の完成原稿が間に合わず、発送日の22日の早朝、校正した第一稿原稿の訂正箇所だけに訂正した文字や文章を上から貼って印刷して間に合わせました。9時半頃から支援会の事務局の方々が7名来て下さり、私を含めて8名で発送作業を行い、お昼ごろまでにはすべて完了しました。その時丁度クロネコヤマトの人が別件で来ましたので、作業が完了した封筒約1,100部も集配して持っていってくれました。発送作業の時は、何時もはお弁当を船越ごはん亭に買いに行くのですが、この日は皆でお茶を飲んだだけで散会しました。その後私は後片付けをして、午後2時過ぎに船越教会を出て、鶴巻に帰って来ました。
  • 23日(火)は、日曜礼拝説教と支援会の通信発送作業もありましたので、一日鶴巻でゆっくり過ごしました。
  • 24日(水)は午後4時半に高座渋谷教会で、基地・自衛隊問題小委員会(基地小)が予定されていましたが、委員長の連れ合いがコロナに感染し、急遽リモートで午後7時半から行うことになりました。すると横浜にいる娘から午後3時過ぎにメールが入り、彼女も今朝から熱が出て、医者に診てもらったら、コロナに感染したと言われたという連絡がありました。娘とは20日の土曜日に鶴巻で会っていますが、私への感染は大丈夫のようです。どうもコロナは五類になってからも感染そのものは治まっていないようで、まだ当分は気を付けながら生活して行く必要があるようです。7時半からの基地小のリモートでの委員会は4名の委員が参加して行われました。今後年度末までの基地小の課題は、後通信第2号の発行です。昨年秋に基地小主催、数委員会の共催で開催した「台湾・沖縄・琉球弧を戦場にするな!全国キャラバン」(講師 森の映画社 藤本幸久さん・影山あさこさん)の報告が中心になります。私も巻頭言を書くことになっています。巻頭言の締め切りは1月末までになっていますが、私は28日(日)の教区の教職研修会「教区寿地区活動の初めと今」の発題もありますので、基地小通信の巻頭言はそれが終わってからの数日で書くことにしています。
  • 25日(木)は国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行きました。この日は風が強く、下記のグッズが何回も吹き飛ばされそうになりました。

    またこの日は大分寒く、時々太陽の光が射し込む車道側のイチョウの木に、体が温まってくるので、寄りかかっていました。この日は4人での座り込みでした。午後4時少し前に後片付けをして散会しました。私はその後、地下鉄国会議事堂前駅から明治神宮(原宿)経由副都心線で横浜に出ました。午後6時半からなか伝道所で、寿地区活動委員会があったからです。委員会では主事報告の中で越冬活動報告がありましたが、今年も何とか無事に終えることができたようです。私は今年も参加できませんでしたが、委員の中には初めて参加した委員もいて、その感想を述べていました。越冬活動では毎日炊き出しが行われていますが、その炊き出しに並ぶ人の人数が、今年は少な目だったようです。反面ボランティアは多く、一部のボランティアの方々には寿の街を案内して見学してもらったようです。寿が「日雇い労働者の街」から「セーフティネットのまち・コトブキ」へという移行の中で、寿での活動もその変化に対応するものが求められているのでしょう。横浜市寿福祉プラザ相談室が発行する「令和4年(2022年)度業務概要では、「平成元年(1989年)労働者まち」(簡易宿泊所宿泊者6,151人、高齢化率7.5%、生活保護受給者1,652人、外国人居住者533人、中学生以下のこども78人、求職登録者数7,185人)に対し、「令和3年(2021年)福祉ニーズの高いまち(簡易宿泊所宿泊者5,637人、高齢化率55.5%、生活保護受給者5,339人、外国人居住者70人、中学生以下のこども10人未満、求職登録者数(2018年度)550人)となっています(『横浜寿町-地域活動の社会史下-』(寿歴史研究会編、2023年、社会評論社)201頁)。この日寿活動委員会を終えて、鶴巻に帰ったのは午後10時半頃でした。