なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(48)「堂々と証言する」ヨハネ9;24-34

2月11(日)降誕節第7主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

 (ヨハネ3:16)

③ 讃 美 歌 7(ほめたたえよ、力強き主を)

https://www.youtube.com/watch?v=5BFTA3knW9U

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編95編1-11節(讃美歌交読文105頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書9章24―34節(新約185頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    377(神はわが砦)

https://www.youtube.com/watch?v=ZwPu4ATmvu4

⑨ 説  教   「堂々と証言する」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日は2月11日です。今年は2月11日が日曜日ですので、この日の休日は振替休日として明日の12日(月)になっています。

 

国の制度では「建国記念の日」ですが、日本基督教団ではこの日を「信教の自由を守る日」としています。ここには日本基督教団の苦い歴史が関係しています。ご存じのように日本基督教団は、1941年に国家の圧力の下で、30数教派の教会が国家に包摂される形で合同して、成立しました。そして当時の日本の天皇制国家が遂行していた戦争に協力しました。その反省に立って、日本基督教団は1967年イースターに、当時の日本基督教団総会議長鈴木正久さんの名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(通称「戦責告白」)を出しました。「建国記念の日」(「信教の自由を守る日」)はその前年の1966年12月に法律で制定され、1967年2月11日が最初の「建国記念の日」(「信教の自由を守る日」)になります。このころ教会では靖国神社国護持法案反対の運動が行われていて、紀元節と重なる「建国記念の日」制定にも反対していましたが、靖国神社国家護持法案は廃案になりましたが、「建国記念の日」は政令によって内閣で決められてしまって、実施されてしまいました。

 

最近自衛隊員が靖国神社に参拝したと言われます。それは敵基地攻撃の可能性が高まっている中で、自衛隊員が戦争で死んだときに英霊として靖国神社に合祀してもらうためではないかと思われます。

 

このことは、アメリカとの軍事同盟を強化し、軍拡をめざしている岸田政権下で、自衛隊員が戦死するような事態が起こらないとも限らないという現実があることを示しているものと思われます。

 

そういう状況の中で、私たちキリスト者は戦争へと突き進む国家に抗して、否を明確に証言して行かなければなりません。

 

私は、昨年はボンフェッファーの一日一章を毎日読みましたが、今年はバルトの一日章を読んでいます。最近のバルトの一日一章は、2月7日から2月11日の分の表題が「世に抗して」となっています。そして2月7日の一日一章は、マルコによる福音書の13章13節の言葉「わたしの名のために、あなたがたはすべての人ににくまれる」に基づいて記されています。

 

バルトは、この2月7日の一日一章で、「この世の力によってキリスト者は『苦境』に陥ります」と書き始めて、その「苦境は非常に多様な形をとることがあります」と言って、キリスト者を苦境に陥れる様々なこの世の力について記していて、その中には国家もあります。「周囲の人びとの抵抗力は、キリスト者の証しによって習慣と秩序が妨げられた社会の名において、時にはまたキリスト者の特別な関心に疑念を抱いた国家の名においても行なわれます」と語り、それに続けて、様々なイデオロギーと権力の名においても、また、「道徳の代表者たちによって、あるいはまさに支配的な敬虔さと教会の教えを守る代表者たちによって行われ、それは時にはまた単に暴徒によっても行なわれることがあります」と言い、更にその抵抗圧力はキリスト者自身の家庭においてあり得ると言っているのであります。そして、「世の反撃は直接キリスト者の証しそのものに対して向けられるでしょう。だがそれは恐らくもっとずっと頻繁に、他にもキリスト者に対して挙げられる間接の非難の道を取り、キリスト者の存在を何か別の理由で消し去ろうと試みるでしょう」言っているのであります。

 

つまり、キリスト者がイエスを信じ、イエスの福音を証言し、イエスに従って生きていくときには、世からの様々な抵抗圧力にぶつからざるを得ないので、その世に抗して生きて行かざるを得ないということを語っているのであります。

 

2月11日は、改めてこのことを自覚させられる日ではないかと思います。このことを最初にお話しさせてもらいましたのは、今日のヨハネによる福音書の聖書箇所が、イエスを信じる者が受ける苦境を、ファリサイ人たちからイエスに癒された生まれつきの盲人も受けているのですが、それにもかかわらずこの人は大胆にイエス・キリストを証言しているのです。この大胆にイエス・キリストを証言している癒された人の姿は、この世に抗して生きるキリスト者のあるべき姿を示しているのではないかと思うのです。

 

24節以下のところで、ユダヤ人たち(=ファリサイ派の人たち)は、もう一度癒された人を呼び出して、尋問を再開します。「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ』」(新共同訳、24節)。新共同訳で「神の前に正直に答えなさい」と訳されている所は、「神に栄光を帰せよ」で、これは「古くからの誓いの言葉であり、神を讃える証拠として、この言葉が用いられ、人は真実を語るよう促され(ヨシュア7:19)罪を告白するよう促される(例えば、サム上6:5、エレ13:16)」のであります。

 

いやされた人は、自らの体験にもどります。「彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです』」(新共同訳、25節)。

 

この人はユダヤ教権力者たちの専門知識(律法によると何が罪であるか、25節前半)の枠内で彼らと渉り合うことはせず、彼の主張を自分が経験した現実、そしてそこから得た彼の知識と対比させる(25節後半)のです。

 

「すると、彼らは言った。『あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか』」(新共同訳、26節)。

 

そこでいやされた人は、不機嫌になって、「彼は答えた。『もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか』」(新共同訳、27節前半)と言って、ファリサイ人たちの尋問を巧みに彼らに向け返して、「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」(新共同訳、27節後半)と言います。この一連の尋問のなかで、ファリサイ派の人たちは初めて尋問をする側ではなく、受ける側に立たされます。

 

「そこで、彼らはののしって言った。『お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない』」(新共同訳27,28節)。

 

ファリサイ派の人たちの誇りと確信とは、自分たちがモーセの律法にたえず服して仕えているということに基づいていました。彼らにすれば、モーセには、いかなる不分明な点もありません。神は、民に対する御言葉をモーセにゆだねました。モーセに従う者は、神の戒めを守り、神の道を歩んでいるのです。それに反し、イエスについては何もはっきりとしていません。イエスを動かしているものは何か、イエスの力はどこから来たのか、その出所・起源はどこにあるのか、はっきりしていません。それだから、人びとはイエスを信ずることはできないのです。モーセの導きをこのイエスの指導と取り違える者は、愚かな者であろう。彼らはそう考えていたのです。

 

しかしヨハネの視点に立てば、人がモーセモーセに与えた神の約束に完全に忠実であるなら、イエスの弟子とならねばならないのです。

 

そして、最後に、30節以下の部分で、癒された人が次のように言います。「「あの方がどこから来られたのか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(新共同訳、30-33節)。

 

このような堂々とした自分の信仰告白を、この人は、ファリサイ派の人たちに向かって語ります。30節のこの癒された人の冒頭の言葉は、彼の両親の答えを支配していた権力者に対する恐怖(21-23節)が息子であるこの人を支配していないことを示しています。

 

私たちがここまで、癒された人の歩みを辿ってきて、驚くのは、この人の目ざましい変化です。彼は、つい先頃まで、道ばたに座って物乞いをしていた盲目の「乞食」でした。イエスが、この人に目を留められ、「シロアムの池に行って洗え」と命じられると、彼は、自分にそのようなことを命じる人が、一体どういう方であるか分からないままに、またそこで何が起こるかということに何の保証もないままに、イエスの命令に従って、シロアムの池に行きました。それが彼のイエスに対する信仰の第一歩でした。その後の近所の人々とのやりとり、そしてファリサイ派の人たちの厳しい尋問――そういう中で、彼は次第に成長してゆきます。17節でファリサイ派の人たちが「お前の目をあけてくれたその人を、どう思うか」と問うた時には、彼は、「預言者だと思います」という答えしかできませんでした。それが25節では、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」という、はっきりした答え方をしています。また、最初にイエスに対して単純な信頼を持っていたにすぎなかったこの人が、次第に、イエスの人格に対してはっきりとした認識を持つに至るまで成長します。そして最後には、先程読みました30節以下に書いてあるような堂々とした信仰告白を、ファリサイ派の人たちに向かってするわけです。

 

ファリサイ派の人たちが言い争って、イエスに反対すればするほど、この癒された人をいよいよイエスの方に追いやっていきました。こうしてファリサイ派の人たちは、自分たちの思いとは裏腹に、イエスに奉仕していたのです。なぜなら、彼らはこの癒された人に、彼が経験した助けが何を意味していたかを、かえっていっそう明らかにするばかりだったからです。この人の場合、彼らはその反対によって強くしてしまったのです。この癒された人には、イエスがどうしてこのような業を行なわれたか、ただ一つの説明だけが存在します。すなわち、この方はその力を神から受けたのである。したがってさらに、この方が罪人でないことは、いうまでもなく確かなことなのです。

 

一人の信仰告白する者として彼はここに立っています。この信仰告白を聞いたファリサイ派の人たちは怒りだして、34節で、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した」と書かれています。「外へ追い出した」というのは、単にユダヤ教の会堂の扉の外に追い出したということではありません。ユダヤ教徒としての交わりから追い払うということです。いわば村八分にしてしまったということです。それは当時の社会では、どれ程重大なことであったかは、言うまでもないと思います。

 

私たちも、このイエスに癒された盲人のように。この世の様々な抵抗圧力に抗して、イエスは主なりという告白に立ちつづけていきたいと願います。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いて下さいますように!

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日は「建国記念の日」(=「信教の自由を守る日」)です。かつて日本が天皇制国家であった時に、私たちほとんどのキリスト者は信仰を守ることができず、国家の支配に組み込まれて、侵略戦争に協力してしまいました。神さま、どうか今この時代の只中で、イエスを主と告白し、その信仰告白に従って生きることができますように、私たち一人一人をお導きください。
  • 神さま、世界には戦争や貧困や様々な差別によって苦しんでいる人々が沢山います。どうぞそのような人々がその苦しみから解放されて、あなたから与えられた命を大切に生きていくことができるように、この世界が平和な世界になるようにお導きください。ウクライナパレスチナに一刻も早く平和が訪れますように。
  • 能登半島地震で苦しんでいる人々を支えてください。また適切な支援が与えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌  418(キリストのしもべたちよ)

https://m.youtube.com/watch?v=6eH7jOUWCEg

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。