なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

クリスマス礼拝説教(「神の憐れみ」テトスへの手紙3章4-7節)

12月24(日)クリスマス礼拝   

               

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光が昇り、主の栄光あなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」       (イザヤ書60:1-2)

③ 讃 美 歌  268(朝日は昇りて)

 

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編89編20-30節(讃美歌交読文98頁)

⑥ 聖  書  テトスへの手紙3章4-7節(新約398頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     259(いそぎ来たれ、主にある民)

⑨ 説  教   「神の憐れみ」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今年もイエスの誕生を祝うクリスマスの時がやってきました。毎年この時期になりますと、私たちはクリスマスを迎えるわけでありますが、クリスマスはイエスの誕生を祝うという意味で同じことなのですが、それを祝う私たち自身にとっては、毎年毎年違ったクリスマスを経験していると感じるのではないでしょうか。昨年はコロナウイルス感染とロシアのウクライナ軍事侵攻の中でのクリスマスでしたが、今年はコロナウイルス感染は落ち着いていますが、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻に加えて、イスラエルによるパレスチナ自治地区ガザへの攻撃によって、今も多くの人々の命が奪われている中でのクリスマスになりました。

 

今日は、今年のクリスマスの聖書日課の一つでありますテトスへの手紙3章4-7節からクリスマスのメッセージを聞きたいと思います。テトスへの手紙は、Ⅰテモテ、Ⅱテモテと共に牧会書簡と言われていますが、紀元後100年から130年頃までの文書と言われていて、パウロが著者となっていますが、実際はパウロではなく、パウロの思想を継承した人によって書かれたパウロの弟子の名前がついた手紙です。先程司会者に読んでいただいた3章4-7節には、明らかにパウロの「信仰によってのみ義とされる」という信仰義認論が反映されていることが分かります。3章1-11節につけられた新共同訳の表題は「善い行いの勧め」となっています。この箇所にそういう表題が付けられたのは、1節、2節を読んだだけでも理解できます。

 

<人々に、次のことを想い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならない。また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを>(1、2節)。

 

この教えは、牧会書簡の教会がその時代の社会に適応して、社会の人々から受け入れられるようになることを勧めるものです。教会のメンバーである、イエスを信じ、信仰告白をして洗礼を受けたキリスト者が、社会に適応するために、「支配者や権威者に服し、これに従い」なさいという教えを含んだ善き行いをしなさいという教えが、時代を超えて普遍的に神がキリスト者に求めたもうことなのかは、ここでは問いません。少なくとも紀元後100年から130年頃の牧会書簡の教会では、そのような教えが指導者によって語られていたということを、このテトスの手紙の箇所が示していることは明らかです。

 

しかし、私がこのテトスの手紙の箇所から、皆さんと一緒に聞きたいと思う語りかけは、私たち人間が善を行ない、自分の力によって神に義と認められることはできないということであって、私たち人間が神に義と認められるのは、ただイエス・キリストを通した神の憐れみによるのだということです。そして神の憐れみによって義とされた者として生きようとしている私たちキリスト者は、戦争や搾取を肯定することはできません。ですから、資本や権力が支配する現在の世界の状況を良しとして、イエスを信じるキリスト者はその現状に安住していることは許されないと思うのであります。

 

さて先ほど司会者に読んでいただきました、テトスの手紙3章4-7節のパウロの信仰義認論が反映していると思われる箇所の直前の3節では、信仰者も信仰を与えられる以前には、この世の人と全く変わらない生き方をしていたことが記されています。<わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎しみ合っていたのです>(3節)と言われている通りです。自分は信仰者になる前にも、ここで言われているような悪い人間ではなかったと言う人がいるかもしれません。しかし、この3節で言われているのは、「全ての人に命を与えて下さった神のみを愛し、自分を愛するように隣人しなさい」という神の定めに従って生きているのではなく、自己中心に生きている人間から生まれるさまざまな行為が語られているのであります。神と隣人との関係を大切に、自分の命を与えてくださった神とも、同じ神によって自分と同じように命与えられた隣人とも、心を通わせて共に生きるのではなく、「自分さえよければ」という自己中心的な人間として、生まれながらの私たち人間は生きてしまうということが、この3節で語られているのです。

 

現在、戦争や貧困や差別、自然破壊を引き起こしているのは、そのような自己中心的な私たち人間自身です。そのような人間が、己の過ちに気づき、悔い改めて他者である隣人と共に、自分にも隣人にも命を与えて下さった神の意志を大切にして生きていくようにならなければ、国家間の争いである戦争も、少数の人間に莫大な富が集中する経済格差による貧困も、人間の便利さを追求する欲求が引き起こす自然破壊による気候変動の危機も、身近な他者への憎悪と差別による人間同士の分断も、なくすことはできません。

 

私は、政治的な運動にも関わっていますが、政治的な運動だけでは、この現実を変えることはできないと思っています。生まれながらの自己中心的な人間自身が、新しくなって、神に愛された人間として互いに愛し合って生きるようにならなければ、根本的な解決はないと思っています。

 

その新しい人間がどのように誕生するのかということが、今日のテトスの手紙の箇所に記されているのではないかと思います。それは、私たち人間の行なった義の業によってではなく、神の憐れみによって、生まれながらの自己中心的な私たちは一度死んで、新しい人として生まれたのだと言うのです。

 

<しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現われたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです>(4,5節)。

 

ここには、「洗い」=「洗礼」によって、キリスト者の中に聖霊による新生が実現していると言われているのであります。宗教改革者のルターは、カトリックの攻撃を受けて、カトリック神学者と論争したり、命の危険を感じて逃げたりしましたが、そのような苦境な時に、自分の机にバプテスマと書いて、自分はバプテスマを受けてイエスを主と信じる新しい人として生きているのだと自己確認のようなことをしたと言われています。ここにいる方は、ほとんど洗礼は滴礼でしょうが、バプテストは浸礼で、全身水の中に浸して、そこで今までの自分に一度死んで、水から上がることによって、新しく生まれたことを意味しているのです。そのようにテトスの教会の人びとは、洗礼を受けて自分たちは新しくなったと信じていたのです。

 

ですから、6節、7節では、このように言われているのです。<神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです>。

 

テトスへの手紙の著者は、パウロの信仰義認論に基づいて、イエスを信じる者は神の憐れみによって義とされて、永遠の命を受け継ぐものとされたのだと言っているのです。つまり生まれながらの自己中心的な私たちが、イエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストに見倣って、神のとの関係においても、他者である隣人との関係においても、和解と平和を生きる新しい人間に造り変えられているのだと言っているのです。

 

ですから、テトスへの手紙の3章1-11節につけられた新共同訳の表題「善い行いの勧め」は、テトスへの手紙の3章1-11節がそのような「キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者」とされたこの手紙の教会の人びとへの「善い行いの勧め」であることを示しているのです。

 

この牧会書簡の一つであるテトスへの手紙の、キリスト者への「善い行いの勧め」は、個人倫理に偏り、その当時の社会の中で教会を護る護教的な面が強いと思われます。その限界を踏まえて、私たちにとっては、イエスを信じることによって新しくされた人間として現代の社会を生きるときの「善き行い」は何かを、イエスの生涯の言葉や行為から見出していきたいと思います。

 

「平和の君」として生まれたナザレのイエスの誕生を祝うこのクリスマスに当たって、「平和の君」イエスに倣って、新しい人として今を生きていくことが出来るように、私たち一人一人に聖霊を豊かに注いでくださいますように!

 

お祈りいたします。

 

  • 神さま、今日はクリスマスの礼拝です。主イエスの誕生を祝うクリスマスの礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、あなたは御子イエスをこの世に遣わし、私たちへの憐れみを示してくださいました。あなたをないがしろにして、互いに争い合い、傷つけ合っている、生まれながらの私たち人間を、イエスを通して、あなたを愛し、互いに愛し合う、新しい人間へと造り変えてくださいました。心から感謝いたします。
  • どうぞ私たちひとりひとりが、主イエスに倣って、与えられた生涯を生き抜いていけますように導いてください。
  • 今なお「自分だけ」を求める私たちの罪によって生み出されるこの世の闇の中にあって苦しむ人々を支え、助けてください。
  • ウクライナパレスチナに一刻も早く平和が訪れますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    261(もろびとこぞりて

⑪ 讃 美 歌   81(主の食卓を囲み 1、2節)

⑫ 聖 餐 式

⑬ 讃 美 歌   81(主の食卓を囲み、3節)

 

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。