なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(595)

船越通信、№595  2023年12月17日(日)北村慈郎

 

  • 10日(日)の礼拝には久しぶりにI・Iさんが出席しました。比較的お元気そうでした。礼拝後、遠くに住む方や礼拝に出席できない方に船越教会としてクリスマス・カードを毎年出していますが、今までその担当を一手に引き受けて下さっていたI・Iさんも加わってもらい、各々のカードに礼拝出席者に寄せ書きをしていただきました。私が宛名シールを用意し、封筒の表に宛名を貼り、裏に船越教会の教会印を押してもらって、H・Tさんに切手を貼って出していただくようにしました。その作業の一方で、クリスマスを前に教会備え付けの讃美歌のカバーなどの修理等を何人かの方々がしてくださり、今年もクリスマスを迎える準備が整いました。午後2時ごろに最後にI・Iさんが帰りましたので、私も後片付けをして午後2時38分のバス停梅田発のバスで追浜に出て、何時ものルートで鶴巻に帰りました。
  • 11日(月)は午後、私にとっては気分転換をはかる一つの方法で、自分の机と本のある、とても書斎とは言えない物置状態の部屋の片づけでをしました。片付けと言うよりは、位置替えと言った方が良いかもしれません。この部屋は、連れ合いが生前使っていた部屋で、長方形で8畳か9畳くらいで、押し入れも下部三分の二はクローク状になっていて、上部三分の一は棚になっていて物が入るようになっています。押し入れの反対部分に一間の窓と一畳分の壁があります。連れ合いがいた時は6畳弱の部屋が私の書斎で、この時は本が入りきれなかったので、近くにロッカールームを借りていました。しかし、連れ合いが帰天してから一年後くらいに、ロッカールームにあった本もすべて今の部屋に運び込みました。部屋の四面の壁部分で唯一この部屋の外に直接通じるのは、部屋の入口の扉部分だけです。今まで机部分が狭かったので、物を置かないで窓を開けられるようにしていたのを、窓部分の前にも物や本を置いて、机部分を広げるようにしました。それをするだけでも半日くらいかかってしまいました。私は12月が来て、満82歳になりましたので、部屋の片付け(位置替え)もこれが最後でしょう。後は本や書類の処分をどうするかです。
  • 12日(火)午後7時から支援会の世話人・事務局のZOOM会議がありました。この日も報告の中に常議員会の報告がありました。5日の神奈川教区のリモートによる常置委員会で、F・M議長が常任常議員の一人であるF・Jさんに、機構改定の準備が常議員会ではどの程度まで進んでいるのかという質問をしました。それに対するF・Jさんの話では、来年4月から6月にかけて行なわれる各教区総会に提出できる機構改定案の準備は常任常議員会でも常議員会でもできていないということのようです。ということは、この秋の教団総会に機構改定の議案を出すことが難しいということになります。機構改定はおそらく教規の変更を伴いますので、教規の変更は教団総会で議員三分の二以上の賛成が必要になります。今の常議員会では教団総会議員三分の二以上の賛成を必要とする教規変更を伴う機構改定の議案を出すことは難しいでしょう。そもそも私の戒規免職処分が教団において最終決定した2010年9月直後に開催された教団総会で、常議員選挙をそれまでは行なわれていた選挙方法を変えて全数連記にし、一部の立場の人達の絶対多数による常議員会が構成されて、現在に至っております。教団総会議長も2010年秋の教団総会で、私の戒規免職問題の審判委員長を務めた石橋秀雄さんがなり、2022年秋の教団総会まで続きました。2022年秋の教団総会からは、同じく私の戒規免職問題で教師委員会の調査委員長を務めた雲然俊美さんが教団総会議長に選出されて、現在に至っています。「北村慈郎教師の戒規免職撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会」の「宣言」(1,北村慈郎牧師の免職処分の即時撤回と教団教師としての復権を求めます。2,聖餐についての論議の場が設定されることを求めます。3,「戦責告白」の教団史における意義を踏まえ、歴史に向かい合う教団となることを求めます。4,沖縄教区に対する謝罪と関係回復への具体的作業を求めます。5,一方的な「公同教会」の主張を再考して「合同教会」の形成を求めます)の賛同者は、現在4,500名に達しています。この賛同者に名前を連ねてくださっている教団の教職の方々は、おそらく1970年の東京神学教授会による機動隊導入と半数以上の学生の除籍・排除以降の東京神学大学出身者の教職以外の方々ではないかと思われます。東京神学大学の機動隊導入問題を不問にし、戦責告白には触れずに教団の信仰告白と教憲教規の遵守を掲げる人たちは、1941年の国家の圧力に屈してできた日本基督教団の成立とその後の戦争協力についても口を閉ざして、触れようとはしません。キリスト教教義の正統性を主張し、異端審問のように私のようなものを切り捨て、歴史を生きる教会の苦闘を共有しようとはしません。残念ながらそのような方々が教団政治を支配している限り、この破局的な時代状況の中にあって教団が教会としての存在意義を示すことは難しいでしょう。機構改定の問題から、私自身はそのようなことを考えていました。その他に次回通信発行の件(2024年1月20日頃)、北村慈郎牧師支援コンサートの件(第1回:2024年2月23日(祝・金)13:00開演、荻窪教会、第2回、2024年4月6日(土)紅葉坂教会)などを話し合いました。第1回のコンサートのチラシは三・一教会牧師のO・Sさんが既に作って下さっていますが、その修正点をこの日確認して、O・Sさんに修正してもらい、印刷発注もお願いして、既にチラシ1,500部は私の所に届いています。
  • 14日(木)は通常でしたら国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに出かける日でしたが、この日は帰天された関田寛雄先生の一周年の日になりますので、前もってご家族の方を中心に先生の墓前で一周年の記念式をするので、私に司式をするようにとお願いされていました。そこでこの日は午前11時少し前に鶴巻を出て、待ち合わせの南武線津田山駅に出かけました。そこでご家族の方々をお会いし、一緒に墓地に行き記念式を行ないました。総勢12名でした。この日は青山関係の方々が世田谷の砧教会で30名ほどの出席者による関田先生の一年を憶える集いを開いていると伺っていました。関田先生が帰天されてもう一年が経ったというわけです。光陰矢の如し。