「自由の子」ガラテヤ人への手紙4:21-5:1、2016年11月13日(日)船越教会礼拝説教
・「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。しっかりしなさい。奴隷の軛に二度と
つながれてはならない」(ガラテヤ5:1)。口語訳では、「自由を得させるために、キリストはわたした
ちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。
これが、パウロがガラテヤ教会の人々に語りましたメッセージです。それは、今私たちにも語られてい
るメッセージではないでしょうか。
・ここには、イエス・キリストを信じる者は、何かに隷属する奴隷ではなく、自由な存在であることが語
られています。このキリスト者の自由とは、どのような自由なのでしょうか。宗教改革者のマルティン・
ルターに有名な『キリスト者の自由』という本があります。このルターの『キリスト者の自由』から、キ
リストが私たちに与えてくれた自由について考えてみたいと思います。
・ルターは『キリスト者の自由』において、まず互いに矛盾する二つの命題をかかげています。一つは、
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも隷属していない」です。もう一つ
は、「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している」です。
・そしてこの矛盾する二つの命題をどう理解するかを問いかけています。ルターは、キリスト者の自由と
は、身体的な自由ではなく霊的な自由であり、キリストが「人はパンだけで生きるのではなく、神の口か
ら出るすべての言で生きる」(マタイ4:4)と言ったように、神の言、つまり福音に従って生きることで
あると言っています。
・「キリスト者は信仰だけで充分であり、義とされるのにいかなる行いも要しない。・・・彼がいかなる
行いももはや必要としないとすれば、たしかに彼はすべての誡めと律法とから解き放たれているし、解き
放たれていたとすれば、確かに彼は自由なのである。これがキリスト教的な自由であり、『信仰のみ』な
のである。それはなすことなしに、なまけ、怠り、気儘勝手に、振舞ってよいというのではなく、われわ
れが義と祝福に達するのに何の行いも必要としないとの結論に導くものである」(石原謙訳、ルター『キ
リスト者の自由』岩波文庫p21)。
・このことは主イエスが「幼子のようにならなければ誰も神の国に入ることはできない」と言われたこと
に通じると思います。幼子には、立派な行いはありませんが、疑いのない無心の信頼があります。町など
で母親、父親の手をししっかり摑んで、安心しきっている幼子を見かけることがあります。時には、その
幼子と目を合わしますと、その子がにこっと笑ってくれることもあります。そのような幼子の姿を見ます
と、その幼子は、すべてを母親、父親にゆだねて、その自由の中にあることがよく分かります。信仰はそ
のような委ねとしての信頼を意味します。
・ルターの言う「キリスト者の自由」とは、カトリック教会の教皇の権威や規則、強制された行為(贖宥
券の購入とか)から解放され、信仰のみによって生きることを意味しました。これが第一の命題である
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも隷属しない」の意味するものです。
・次に、第二の命題である「キリスト者が僕である」とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。
・この地上では人間は他の人びとのなかで生活しています。そのために他の人びとに対して行いなしにい
ることはできません。パウロがキリストの生き方を模範として、「何事も利己心や虚栄心からするのでは
なく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人の
ことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるもの
です」(フィリピ2::3-5)と説いていますように、隣人を愛し、隣人に奉仕しなければならないのです。
・ルターは『キリスト者の自由で』kのように書いています。「キリスト者は今や全く自由であるが、し
かし彼は喜んでその隣人を助けるために己を僕となし、あたかも神がキリストを通して彼と関わりたもう
たように、彼と関わり行うべきである。・・・キリストがわたしのためになりたもうたように、わたしも
またわたしの隣人のために一人のキリストとなろう。・・・見よ、かようにして信仰から神への愛とよろ
こびが溢れいで、また愛から、価なしに隣人に奉仕する自由な、自発的な、喜びにみちた生活が発出する
のである(ルター『同上書』p.43-44)。
・つまりルターは、聖書の教えに従って、キリスト者は自由であることとともに、隣人に無償で奉仕する
僕でなければならないと説いたのであります。ですからルターは教会を批判し、聖職者と教会(その頂点
にある教皇)が祝福のためと称して信者に善行を強制することは誤っていると言わざるを得ませんでした。
・ルターはこのようにも書いています。「これらすべてのことにおいて何人も己のことを求め、かく己の
罪過をつぐなって祝福されると自惚れているのではないかを、私は恐れるからである。これらすべてはひ
とえに信仰及びキリスト教的自由の無理解から由来している。そしてある盲目な高僧たちは人々をここに
導いてこれらのことを称賛し、贖宥(赦免状)を以って飾り立てはするが、決して信仰を教えようとはし
ない。けれども私は勧告する。あなたがもし何かを寄進献納し、祈願し、断食したいと思うなら、あなた
自身に善いことを求める意図をいだくことなく、他の人々がこれを喜びとすることのできるように惜しみ
なく施しあたえ、彼等に益するようにこれを行うべきである。そうしたらあなたは真のキリスト者であ
る」(ルター『同上書』p.48)。
・そして信仰と隣人愛こそ真の自由であると、ルターはこのように結論付けているのであります。「キリ
スト教的な人間は自分自身においてではなくキリストと彼の隣人とにおいて、すなわちキリストにおいて
は信仰を通じて、隣人においては愛を通じて生活する。彼は信仰によって、高く己を越えて神へと昇り、
神から愛によって再び己の下に降り、しかも常に神と神的な愛のうちにとどまる。・・・見よ、これが、
心をあらゆる罪と律法と誡めとから自由ならしめるところの、真の霊的なキリスト教的自由であり、あ
たかも天が高く地を越えているように、高くあらゆる他の自由にまさっている自由なのである。神よ、
われわれをしてこの自由を正しく理解し且つ保つことをえさせて下さい。アーメン。(ルター『同上
書』p.49)。
・実は今日のガラテヤの信徒への手紙の箇所は、まさにこのルターの『キリスト者の自由』が記されて
いるところと言ってよいでしょう。「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。しっ
かりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはならない」(ガラテヤ5:1)。口語訳では「自由を得させ
るために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のく
びきにつながれてはならない」。このパウロのメッセージを、私たちも今日的な状況の中でしっかりと受
け取りたいと思うのであります。
・何故なら日本で現在支持されていますは安倍政権も、今度アメリカの大統領選挙で選ばれたトランプ氏
も、一人ひとりの人権を大切にするとは思えないからです。キリスト者の自由の第二の命題「キリスト者
はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも隷属する」は、他者である隣人の人権、その人がその人
らしく生きていく権利を認めることを意味しているからであります。隣人を愛するとは、隣人を大切にす
ることです。隣人を大切にすることは、その隣人が自分の自由によって自ら選んで生きていく権利を尊重
するということです。
・昨日教区の性差別問題特別委員会主催の講演会があり、私も参加して講師の、「女たちの戦争と平和資
料館〈wam〉事務局長」のW・Mさんでした。テーマは「日本軍(括弧付き)『慰安婦』問題と日韓『合意』
」です。日本軍の「慰安婦」問題で、韓国と日本の間で、昨年12月28日に「合意」し、日本が10億円の基
金を、韓国政府が設立する元慰安婦を支援するための財団(「和解・癒やし財団」)に出すことになり、
日本はそれを拠出しました。それによって日本政府は、在韓国日本大使館前の、日本軍「慰安婦」少女像
の撤去を韓国政府に求めているわけです。それに対して、韓国では反対運動が盛り上がっているのです。
日本政府は旧日本軍が関与して慰安所にさまざまな国の女性を日本軍「慰安婦」として強制的に送り込ん
だという事実を認め、きちっとした謝罪はしません。本来ならば、事実を認め、謝罪し、保障するのが筋
ですが、日本政府はその筋を通すことなく、お金で問題解決を図ろうとしているわけです。
・それをもって「和解」が成立するとなれば、実際に人権を無視され、性奴隷として日本軍「慰安婦」と
された女性たちの存在は、この歴史から消されてしまうことになります。W・Mさんは、<日本軍「慰
安婦」問題>は、何よりも人権基準の即して考えられなければならないと、強調されていました。W・Mさ
んは、たくさんの日本軍「慰安婦」とされた女性たちとお会いしていて、その方々の切実な訴えを聞いて
いると思います。
・今日の週報の船越通信にも書きましたが、昨日の集会の最初に皆で歌った讃美歌21-421「さあ、
共に生きよう」の後、講演に立たれたのですが、しばらく涙を流して言葉が出ませんでした。元日本軍
「慰安婦」の方々の一人ひとりを思い出して、その方々と「共に生きたい」と願いながら、この社会の現
実はその一人ひとりを消し去っていく横暴な力が支配しているが故に、共に生きていくことができない。
本当に「さあ、共に生きよう」という歌の世界になればと願いながら、そうではない逆の現実がこの社会
を支配している。その矛盾の狭間にあって、涙せざるを得なかったのではないかと推察いたします。
・今は、米軍と日本政府によって基地強化が押し付けられている沖縄にあって、その反対運動をしている
方々、日本政府と東電によって原発事故に遭った福島の方々が、日本軍「慰安婦」と同じように、その存
在を消されようとしています。
・「さあ、共に生きよう」の讃美歌の歌詞の中に、3番「さあ、共に生きよう。/主はいのちかけて/新し
い自由の/道を示された」とあります。今日のメッセージは、まさにこの歌詞に言い表されているのでは
ないかと思います。「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。しっかりしなさい。奴
隷の軛に二度とつながれてはならない」(ガラテヤ5:1)。口語訳では、「自由を得させるために、キリ
ストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれて
はならない」。
・何ものにも束縛されない、ただイエスの神のみを信頼する者として、神のみを愛し、自分のごとく隣人
を愛する、イエス・キリストが与えてくださった「新しい自由の道」を、私たちは、wamに、「戦争展示
物を撤去せよ。さもなくは爆破する」という爆破予告が送らてくる、今日的な状況の中で、このキリスト
が与えてくださった「新しい自由の道」を互いに支え合いながら一歩一歩歩いていきたいと切に思う次第
です。神の導きを祈りつつ。