なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(50)

  「なぜ、わたしは」エレミヤ書20:14-18、2016年11月20日船越教会礼拝説教


・自分の生まれた日を呪う。つまり自分は生まれなかった方がよかった。そのように生きることを悲観

的に、否定的に受け取っている人は、多くはないとしても、私たちの中にもいるのではないかと思われ

ます。自死する人が後を絶たないということは、そのことの証左ではないかと思われるからです。

・けれども、預言者エレミヤが自分の生まれた日を呪っているのは、どうしてなのでしょうか。エレミ

ヤは神の召命を受けて預言者として立てられた人物なのですから、通常は自分の生まれた日を呪うなど

ということはあり得ないように思われるのです。しかし、先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書20

章14節以下には、はっきりとエレミヤが自分の生まれた日を呪っているのであります。

・<呪われよ、わたしの生まれた日は。/母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。/呪われよ、

父に良い知らせをもたらし/あなたに男の子が生まれたと言って/大いに喜ばせた人は>(20:14,15)。

・木田献一さんは、<この悲観主義は、旧約聖書の中で、エレミヤに初めて見られるものである」と言っ

ています。ご存知のように旧約聖書イスラエルの民を通した神の救済史が描かれているわけですから、

人間の信・不信はあっても、私たち人間と神との関係を全面的に否定する記事は、ほとんどありません。

けれども、今日のエレミヤ書におけるエレミヤは、あたかも神の存在を否定するかのように、自らの生ま

れた日を呪っているのであります。

・エレミヤの召命の記事を覚えているでしょうか。そこにはこのように書かれているのです。<主の言葉

はわたしの臨んだ>とあって、<わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。/母の

胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた>(1:5)と。エレミヤは、

母の胎内に生命を宿す前から神によって知られており、母の胎から生まれる前に神によって聖別されて諸

国民の預言者として立てられた、と言われているのであります。

・そのエレミヤが自分の生まれた日を呪うということは、この神の召命を否定することになるのではない

でしょうか。今日の記事からしますと、実は預言者エレミヤにはそのような自らが受けた神の召命の事実

を疑い、それを否定するようなことが、一時期ではありますが、あったと思われるのであります。それほ

どエレミヤは預言者としての己の存在が分からなくなるほどに、絶望的な状態を経験したのであります。

・それはどんな経験だったのでしょうか。今日の箇所は「エレミヤの告白」の後半の部分ですが、その

前半の所を読みますと、エレミヤが神と格闘しているその姿をはっきりと見ることができます。エレミ

ヤは預言者としてイスラエルの民に対して語るべき言葉を語ったと思われます。ところがエレミヤは、

<わたしは一日中、笑い者とされ/人は皆、わたしを嘲ります>(20:7)と言い、<主の言葉のゆえに、

わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません>と言っているのです。だからもう主の言葉は語る

まい、とエレミヤが思っても、<主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように

燃え上がります。/押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。/わたしの負けです>

(20:9)と告白しているのです。人々から笑い者にされ、嘲られ、一日中恥とそしりを受けるので、も

う主の言葉は語るまいと思っても、主の言葉は内から湧き上がってきて、押さえつけることに疲れてし

まって、結局語らざるを得なくなるのだ、とエレミヤ言っているのです。

・また、エレミヤが躓き倒れるのを待ち構えている人々に対して、すべてを見極めておられる主が自分と

共にいて下さるがゆえに、<わたしの訴えをあなたに打ち明け、/お任せします>(20:12)と言ってい

るのです。そして20章13節では、<主に向かって歌い、主を賛美せよ。/主は貧しい人の魂を/悪事を謀

る者の手から助け出される>と神讃美の言葉を語っているのです。

・このエレミヤの告白の前半では、エレミヤは神と格闘しているのですから、神との関係をまだ持ってい

ます。エレミヤは人々からの嘲笑と迫害を受けていましたが、その苦しみを神に投げかけて、神と格闘し

ているのです。その結果最後には神讃美と信仰告白の言葉が、エレミヤの口から語られているのです。と

ころが、今日のエレミヤの告白の後半部分では、前半部分とは打って変わって、エレミヤの口からその絶

望の深さが吐露されているのであります。少なくとも、この後半部分では、エレミヤにとって神は不在な

のです。神との関係を持っていて、エレミヤは、自分の苦しみを率直に「何故なのか?」と神に問いかけ、

神と格闘してはいません。

・ヴァイザーは、この後半部分では、<(エレミヤは)神との接触が欠如しているがゆえに、生の意味を

問う彼の問いは虚ろに響き、解答は得られない。この苦しく痛ましい「何故」という問いは、エレミヤに

とって、彼の全存在に関わる謎となって、苦痛をもたらす。彼はこの謎のゆえに自らを苛むのである。そ

れは、彼の眼が光の入らない存在の暗闇に呪縛されているからである>と言っています。そのエレミヤの

絶望的な状態は、<なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い/生涯を恥の中に終わらねばならな

いのか>(20:18)というエレミヤ自身が語る言葉によく言い表されています。この時のエレミヤは、自

分の存在と命を注ぐべき対象を見失ってしまっていたように思います。彼自身の苦難の生涯において、一

体自分は何者なのかが分からなくなってしまったのでしょう。全てが無意味なのではないかと思ってしま

ったのではないでしょうか。神からも見離されて、奈落の底に突き落とされ、自分ではどうすることもで

きない状態に落ち込んでいるのかも知れません。まさに「彼の眼が光の入らない存在の暗闇に呪縛されて

いる」(ヴァイザー)のです。

・この時のエレミヤは、一時的に若者に多くみられる自己同一性の喪失(アイデンティティー・クライシ

ス)に陥ったと言えるかも知れません。青年期に私たちは<「自分は何なのか」「自分にはこの社会で生

きていく能力があるのか」という疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ることがあります。その自分の

存在意義の確認にも関わってくる自問に対して毅然と、『私とは、○○であり、自分は、今ここにある自

分以外の何者でもない』と応えられる状況を『自己アイデンティティーの確立』です。『自分は自分であ

る』という明瞭な自己同一性を安定して保てていれば、将来に対する不安や人生に対する無気力、職業生

活に対する混乱を感じる危険性が低くなる>のです。エレミヤは、人々から嘲笑と迫害を受けて苦悩する

内に、自分は神の言葉を取り次ぐ預言者であるという確信が揺らぎ、自己同一性を失って、混乱に陥った

のではないでしょうか。

・こういう自己同一性の喪失は、青年期だけはなく、壮年期にも老年期にも起こり得るのであります。そ

の混乱をありのままに、エレミヤはここで語っているのではないかと思います。エレミヤ書を読みますと、

この自己の絶望についての重苦しい告白に付け加えて、彼が神から遠く離れてしまったこの危機をどのよ

うにして脱したかを示すような言葉を、エレミヤは何一つ語っていません。そのことは、<むしろ、この

預言者の記録の誠実さ、信憑性を印象深く、また意義深く物語る証拠>(ヴァイザー)なのかも知れませ

ん。

・しかし、エレミヤ書に記されていますその後のエレミヤの言葉からすれば、エレミヤがこの危機を脱出し

預言者としての活動を継続していることが分かります。ということは、神がエレミヤを見棄てず、エレミ

ヤをひとり孤独な悲観主義の中に残さなかったということを意味しています。ですから、預言者エレミヤの

生涯を全体として見る限り、このエレミヤの告白におけるエレミヤの絶望も、神がエレミヤと共に歩まれ

た道程の一部であったと言うことが出来るでしょう。

・同じように<わたしの生まれた日は消えうせよ>(ヨブ3:1)と、自分の生まれた日を呪ったヨブの場合、

苦難の中で「何故か」という問いを、神に投げ続けました。ヨブは健康で、財産も有り、家族にも恵まれて、

幸福の絶頂にあった時に、そのすべてを失って、それまでの自分の支えをすべて失ってしまいました。そこ

で「何故なのか」と神に問い、神と格闘したのです。その結果、ヨブは、状況がよかろうが悪かろうが、

<自己の生とはすべて神のみ手より受け取るものであり、この生は、絶えず新たに神に服従することによっ

て、神に捧げるべきものである、ということを学んだ>のでした。

・エレミヤもまた、ヨブと同じだったのではないでしょうか。<なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆

きに遭い/生涯を恥の中に終わらねばならないのか>(20:18)と絶望の中で叫ばざるを得なかったわけで

すが、彼を神は見棄てずに関わり続けてくださったのだと思います。その中でエレミヤもまた、<自己の

生とは、すべて神のみ手より受け取るものであり、この生は、絶えず新たに神に服従することによって、

神に捧げるべきものである、ということを学んだ>のではないでしょうか。

アイデンティティ・クライシス、自分が何者であるかが分からなくなってしまう危機的状態の中から、

本来私たちが持つべき自己同一性が何かを、私たちは発見することができるのではないでしょうか。

ヨハネ福音書の告別説教(14章から16章)の最後で、イエスは弟子たちに自分が去った後、弁護者とし

ての聖霊が弟子たちに与えられるという慰めの言葉を語った後、<これらのことを話したのは、あなたが

たがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさ

い。わたしは既に世に勝っている>(16:23)と語って、受難へと向かっていきました。イエスは、ここで

弟子たちに「あなたがたがわたしによって平和を得るためである」語ると共に、「あなたがたには世で

苦難がある」と語っているのです。イエスの平和は、世の苦難を通して与えられると言っているのです。

権力と資本におもねることによってではなく、その権力と資本によって苦しむ人々の側に、苦難を負う

ことによって立ち続けることによって、神の平和を全ての人と共に享受したいと切に願うものです。