現実の厳しさと我々のふがいなさを嘆きたくなるような現状に対して、神による「方向転換」を語る
バルトの言葉は、力強く我々の歩むべき道を指示しているのではないだろうか。
[神のことを思っているのであれば、あなたの失敗や罪を嘆くには及ばないのである。然り、あなたが
神のことを思っているのであればあなたの誤りや罪について嘆くには及ばないのである。勿論、罪は我々
の咎であり我々は罰を受けることになるであろう。しかし、別のことも真実である。すなわち、いつもと
いうわけではなくとも、我々の過ちや罪においてさえ神のなしたもう始まりが秘められているのである。
咎と罰を通じてさえ、神は我々をその目標に向けて導きたもうのである。咎と罰とはそのようにして我々
に対する大いなる恵みのゆえにわれわれの背後にとどまらざるを得ず、良き実が現れてくるのである。そ
れゆえ、過去におかしたことについての不必要な後悔の思いや自責の念で自分を衰えさせることなく、い
ずれにせよ始まりに立ちたもうとともに、神らしい仕方ですばらしい終わりに導いてくださる神に向けて
断固とした方向転換をするとよい(バルト説教集13巻、21,22頁)。