なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信、№474 2020年11月8日 北村慈郎

・   1日の日曜日は「聖徒の日」(永眠者記念礼拝)でした。船越教会では毎年11月第一日曜日に永眠者記念礼拝を行っています。連絡先を把握している遺族の方には、前もってこの日の案内を出しています。今年はコロナウイリス感染のこともあり、永眠者記念礼拝を行うかどうか迷いましたが、役員会ではいつも行っています礼拝での聖餐式と礼拝後の昼食会は中止にして、礼拝だけ行うことにし、遺族の方にも案内を出しました。毎年東京の葛飾区から来て下っていたIさんは、今年は欠席でしたが、今年新たに遺族の一人に加わった私を含めて6人の遺族の方の出席があり、礼拝出席者16名による永眠者記念礼拝を行うことができました。今年の礼拝説教は、3月3日に帰天した連れ合いの死を通して、私たち信仰者にとって、死は終わりではなく、永遠への一里塚に過ぎないということを私自身が実感していましたので、そのことをテーマにして、コリントの信徒への手紙二、5章1-10節を説教のテキストに選びました。このテキストで語られている「わたしたちは、天から与えられる住かを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」(Ⅱコリ5:2)という点に焦点を当てて説教しました。誰も死んだら自動的に「天にある永遠の住みか」に迎えられるというのではなく、地上の幕屋にあって天にある永遠の住みかを上に着たいともがきながら生きている者にとって、死は通過点にすぎないのではないかということです。また、天の永遠の住みかには、信仰者だけではなく、贖われた人類共同体が存在するというイメージを描いてみました。最近この「人類共同体」というイメージは、契約共同体としての教会の終末論的な希望を示しているのではないかと思っています。礼拝後残れる人で密にならないようにして、お菓子とお茶をいただいて散会しました。

・   その後11月の役員会を行いました。役員会の主な協議事項はクリスマスのことと、教会裏急傾斜地のことでした。クリスマスは、今年は12月24日のイブの燭火礼拝は中止にし、20日のクリスマス礼拝だけにしました。役員会ではクリスマス礼拝の説教者を、8月にお願いしていて中止せざるを得ませんでした関田先生にお願いすることにしました。しかし、関田先生に連絡したところ、すでに先約がありましたので、関田先生への説教依頼は改めて考えたいと思います。教会裏急傾斜地については、11月29日(日)礼拝後に臨時教会総会を開催することにしました。内容としては、最近の気候温暖化による規模の大きい台風や豪雨の多発により各地で崖崩れが起こっていますが、その心配が、教会裏の崖地についてもあるからです。以前に県と市の土木課の人に来てもらって見てもらいました。その結果、「急傾斜危険区域の指定と、防災工事についての要望書を提出する」ことができるということになりましたので、その旨を臨時教会総会に諮り、できれば教会として意思決定して、その作業を進めていきたいと役員会では思っています。詳しいことは11月の役員会議事録をご覧ください。

・   さてこの日に「船越の丘から」第12号を発行することができました。編集に携わってくださいましたNさんと原稿を寄せてくださった皆さんに心から感謝いたします。コロナウイリス感染問題が顕在化してから、なかなか終息に至らないために、常に感染防止を心がけながらの日常生活を送らざるを得なくなっています。しかもこのコロナの問題は人と人との接触を極力避けることが感染防止に繋がりますので、何事も自粛生活に結び付き易くなります。教会活動の発信や行動も自粛に向かいがちですが、教会だより「船越の丘から」の発行は、船越教会からの発信として意味があると思われます。そのために「船越の丘から」が用いられることを希望します。現在船越教会は縮小再生産の方向に向かっていると思われますが、拡大再生産とまでは言えないとしも、福音宣教の課題は果たしていきたいと願います。

・   11月3日で連れ合いが帰天して8か月が過ぎました。3日は仏教でいうと月命日になりますので、特にこの週日はどこにも出かけないで、ずっと家で過ごしましたので、3日の前後には改めて連れ合いの死に思いを馳せました。

・   この船越通信では、私の日誌や感想を中心に書いてきましたが、時々本からの引用を加えたいと思います。まず最近読んで教えられることの多かった斎藤幸平の『人新生の資本論』からにしたいと思います。この本は丁寧に読み込んでいきたいと思いますので、相当長くなると思いますので、悪しからず。この本の「はじめに」の表題は、「はじめに―SDGsは『大衆のアヘン』である!」となっています。SDGsとは、Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称です。その前に斎藤は、「温暖化対策として、あなたは、なにかしているだろうか。レジ袋削減のために、エコバッグを買った? ペットボトル入り飲料を買わないようにマイボトルを持ち歩いている? 車をハイブリッドカーにした?/はっきり言おう。その善意だけなら無意味に終わる。それどころか、その善意は有害ですらある。/なぜだろうか。温暖化対策をしていると思い込むことで、真に必要とされているもっと大胆なアクションを起こさなくなってしまうからだ。良心の呵責から逃れ、現実の危機から目を背けることを許す「免罪符」として機能する消費行動は、資本の側が環境配慮を装って私たちを欺くグリーン・ウオッシュ(グリーンウォッシュとは、環境に配慮した、またはエコなイメージを思わせる「グリーン」と、ごまかしや上辺だけという意味の「ホワイトウォッシュ」を組み合わせた造語。一見、環境に配慮しているように見せかけて、実態はそうではなく、環境意識の高い消費者に誤解を与えるようなことを指す)にいとも簡単に取り込まれてしまう」(3頁、下線筆者)。ここで斎藤は「思い込みによって真に必要とされるものを見失う」、私たちの犯しやすい過ちを指摘しています。気候危機を乗り越えるためには、問題の本質を見極め、それを乗り越える道を発見し、その道を創り出す行動が必要であると言うのです(以下続く)。