なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

待降節説教(マラキ書3:19-24)

「父の心を子に、子の心を父に」マラキ書3:19-24、

                2019年12月15日(日)待降節第3主日

 

  • 今日はアドベント第三主日の礼拝です。今まで礼拝ではマタイ福音書をテキストにしていますが、今日はアドベント第三主日の聖書日課の中からマラキ書3章19-24節をテキストに、メッセージを聞きたいと思います。
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  • マラキ書を読まれた方があるかどうか分かりませんが、最初に少しマラキ書が書かれた時代背景について説明しておきます。この礼拝では、マタイ福音書の前にエレミヤ書をテキストにしましたが、預言者エレミヤの活動は、紀元前721年に北王国イスラエルがアッシリヤ帝国によって滅ぼされた後、まだかろうじて生き残っていた南王国ユダの時代の後半でした。エレミヤが預言者として活動を始めたのが、紀元前640年ごろで、紀元前587年のバビロンによるエルサレム陥落と主だったユダヤ人のバビロン捕囚による南王国ユダの滅亡後、しばらくしてエレミヤの活動も終わります。その後捕囚期の時代には預言者エゼキエルが活動します。

 

  • マラキは、エレミヤやエゼキエルのように名前がはっきりとした預言者ではなく、マラキは人名ではありません。マラキはヘブル語では「私の使者」を意味します。元々この預言書の著者はわかっていませんでした。マラキ書の作者は無名の預言書でしたが、後に3章1節の≪見よ、わたしは使者を送る≫の、べブル語「マルアーキー」を取って、この書の呼び名「マラキ書」としたと言われています。

 

  • マラキ書の預言は、バビロンの捕囚の民のエルサレム帰還、紀元前515年のエルサレム神殿の再建(第二神殿)後、しばらく経ってからのものだと考えられています。帰還した捕囚民を中心にして古代へブル人は、バビロン捕囚からの解放を心から喜びました。今日のマラキ書の3章20節後半に、≪あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る≫と記されていますが、これはバビロン捕囚から解放された人々の喜びを言い表したものです。人々は、牛舎の中に閉じ込められていた子牛が、野に解き放たれて自由に跳び回る姿に、自らのバビロン捕囚からの解放の喜びを重ねて言い表したのです。

 

  • けれども、エルサレムに帰ってきて、捕囚の民が自らの生活基盤を新たに作り出しながら、ユダの地で生き抜くことは並大抵のことではなかったに違いありません。紀元前515年に、ダビデ・ソロモン時代のエルサレムの第一神殿から比べれば、粗末なものでしたが、それでもエルサレム神殿の再建は、帰還の民にとっては喜ばしく、大きな出来事でした。人々はおそらく興奮して、神殿再建を喜び、彼ら・彼女らの未来にも明るい希望をもったのではないかと思われます。しかしその興奮は、現実の厳しさのゆえに長くは続かず、しばらくすると冷めてしまいます。

 

  • エルサレム神殿の再建後のしばらくは、みな熱心に神殿にお参りに行き、祈りをささげたと思われます。しかし、いくら神殿参りをしても、帰還後の古代へブル人の状況は厳しいままです。バビロンの支配からは、バビロンをペルシャが滅ぼすことによって解放されましたが、ペルシ帝国の覇権も厳しく、帰還の民を中心に国の再建を図ったと思われますが、その試みはことごとくつぶされたと思われます。ユダヤ教団としてペルシャの覇権の中で生きることは許容されても、南王国ユダのような国をつくることは許されなかったということではないでしょうか。

 

  • そういう状況においては、エルサレム神殿へのお参りにも熱を失っていったのは当然です。礼拝・祭儀も乱れて、マラキ書の中にはその批判もあります。例えば1章6節以下に新共同訳の表題では「正しい礼拝」となっていますが、そこにこのように記されています。≪子は父を、僕は主人を敬うものだ。/しかし、わたしが父であるなら、/私に対する尊敬はどこにあるか。/わたしが主人であるなら/わたしに対する畏れはどこにあるかと/万軍の主はあなたがたに言われる。/わたしの名を軽んずる祭司たちよ/あなたたちは言う/我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。あなたたちは、わたしの祭壇に/汚れたパンをささげておきながら/我々はどのようにして/あなたを汚しましたか、と言う。/しかも、あなたたちは/主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。/あなたたちは目のつぶれた動物を/いけにえとしてささげても、悪ではないのか。/足が傷ついたり、病気である動物をささげても/悪ではないのか。/これを総督に献上してみよ。/彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと/万軍の主は言われる。≫(マラキ1:6-8)。

 

  • 要するにエルサレミ神殿に仕える祭司も神殿に礼拝に来る人々も、神に対する畏れもなく、いけにえとしてささげる動物も、本来は傷や汚れのない清い動物でなければならないのに、傷のついた動物や病気の動物をささげものとしている。それでどうして神が喜ぶというのかと、言っているのです。これは、明らかに神殿において祭司も民衆も心から神を礼拝していないことを批判している言葉です。

 

  • このようにバビロン捕囚から解放されて、エルサレムに帰ってきた人々は、故郷ユダヤの地で、その解放を心から喜びました。エルサレム神殿を再建して、新たな思いで自分たちの国、ヤハウエ信仰に基づく共同体の建設に取り掛かかったのです。ところが、なお覇権主義的な国がのさばっていて、思うようにはいきません。段々と国家再建という熱い思いが失われて、どうでもよくなってしまったのでしょう。それが礼拝祭儀の乱れとなって現れていたのです。

 

  • 礼拝祭儀の乱れだけではありませんでした。ペルシャ帝国の支配はヘレニズムの影響をユダヤの人々に強いました。支配者であるペルシャ帝国の文化であるヘレニズムにユダヤの若者が強く影響を受けたと思われます。そのために父親の世代と息子たちの間に亀裂が生じ、両者の間に憎しみや対立も生まれていたようです。

 

  • 今日のテキストであるマラキ書の3章23節に、≪見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。≫とありますが、その後の24節に≪彼は父の心を子に/この心を父に向けさせる≫と言われています。ここでの父は文字通りユダヤ人の父であり、子はその息子たちを意味します。親子の間に心が通じなくなっている状況があって、先駆者として派遣される預言者エリヤが父と子を和解させるであろう、と言っているのです。

 

  • このことからすると、マラキ書の預言が語られたときには、礼拝祭儀の乱れだけではなく、父親の世代と子供の世代で心が通わなくなって、ヤハウエ信仰に基づくイスラエル共同体が崩れかかっていたのです。

 

  • おそらく紀元前5世紀前半だと思われますが、マラキはこのような時代に祭司や民の心を神に立ち返らせようとしたのです。

 

  • 今日のテキストもその預言の一つです。このままいけば、エルサレムに帰還したイスラエルの民も、神の怒りをかって滅んでいくに違いない。バビロンによってイスラエルの民が滅ぼされたように。そういう危機感をマラキはもっていたのではないかと思われます。

 

  • ≪見よ、その日が来る、/炉のような燃える日が。/高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。/到来するその日に、と万軍の主は言われる。/彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。/しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。/その翼にはいやす力がある。/あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。≫(マラキ3:19-20)。

 

  • 私は、このマラキの預言が語られた捕囚後のイスラエルの民の状況と、神ならぬ神を畏れて破滅のふちに立っている現在の私たちの国の状況が重なっているように思えてなりません。

 

  • 白井聡は『国体論~菊と星条旗~』という本で、明治以降敗戦までの日本の歴史と敗戦後現在までの日本の歴史が並行関係にあることを指摘しています。明治以降敗戦までの日本の歩みを3期にわけると、おおさっぱに言えば、明治時代の形成期、大正時代の成熟期、昭和時代の敗戦までの時期を崩壊期と言えます。白井聡は、戦後の日本の歴史もその戦前の歩みをほぼそのままの形でなぞっていると言うのです。明治元年の1868年から敗戦の1945年までは77年になります。敗戦の1945年から77年目の年は2022年です。今日本はあと数年で敗戦を迎えた戦時中の破滅に至る崩壊期にあると言うのです。

 

  • 白井聡によれば、戦前の天皇制国体は、戦後天皇に代わって、天皇の位置にアメリカがいて、菊に代わって星条旗が戦後の国体のシンボルになっているというのです。1980年代後半以降、アメリカは日本を収奪の対象にしていて、それまでのアメリカの世界戦略の要石として日本を保護する姿勢を、根本的に変えているにも拘わらず、小泉政権も安倍政権もアメリカに追従して、日本の国をアメリカの属国化に寄与しているという趣旨のことも言っています。

 

  • そういう状況の中で、私たちが憲法の精神、特に第9条の平和主義に立って、再び戦争を起こすことのない平和な社会を築くために、国体から自由になって自立した人間として、現代を生きようとする人々は、マラキの預言に応答しようとしてイスラエルの民と同じなのではないでしょうか。

 

  • 船越教会の横須賀平和センター宣言を想い起したいと思います。

 

  • 「私たちは、先の戦争に対する責任を自覚し、いのちを脅かす貧困、差別、原発、軍事力をはじめとするあらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界の実現を求め、共にこの地に立つことを宣言します。」

 

 

  • ≪義の太陽が昇る。/その翼はいやす力がある。/あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。≫(3:20)

 

  • 私たちは問題に満ちた闇のような社会の中で生活していますが、私たちの進むべき道を示してくださっているイエスが私たちの共にいてくださることを力にして、船越教会横須賀平和センター宣言にふさわしい生き方を、それぞれの場でしていきたいと思います。

 

  • そのような思いをもって来週のクリスマスを迎えたいと思います。