なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(61)「光として来たイエス」ヨハネ12:44-50

5月26(日)聖霊降臨節第2主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌   3(扉を開きて)

https://www.youtube.com/watch?v=Z7WGSR-7DpM

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編37編23-29節(讃美歌交読文40頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書12章44-50節(新約193頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   358(小羊をはほめたたえよ!)

https://www.youtube.com/watch?v=PhM4MFmZKWg

⑨ 説  教    「光として来たイエス」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネ福音書は、13章に入りますと、イエスが弟子たちの足を洗う「洗足の物語」になります。この弟子の足を洗う「洗足の物語」は、ヨハネ福音書では、これまでイエスが「わたしの時はまだ来ていない」と言って来た、「イエスの時」の始まりを意味します。つまり、イエスの時である十字架の出来事の始まりです。そういう意味では、ヨハネ福音書の13章以下は、いわゆるイエスの受難物語になります。

 

従って、今日のヨハネ福音書12章44-50節は、直接的には、12章の中頃から始まったイエスの一連の発言のしめくくりの言葉として理解できますが、しかし、この箇所はそれだけでなく、これまでのイエスの活動のすべてをしめくくる言葉でもあると言えます。そのようなものとして、つまりエスの全ての活動の締めくくりの言葉として、この箇所は重要な所だと言えます。

 

44節、45節を読んでみます。<イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者はわたしを遣わされた方を見るのである>(新共同訳)と記されています。イエスは、ここで、彼自身を信じまた見るということは、単に彼を信じまた見るのではなく、自分をこの世に遣わした神を信じまた見るのと別のことではないと言われます。ヨハネ福音書では、1章18節で既にこのように言われていました。<いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである>(新共同訳)と。ここには、神の独り子であるイエスと神は一体であると言われており、その神の独り子であるイエスが神を示されたと言われているのであります。

 

そのようは事実に基づいて、ヨハネ福音書の著者は、<イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者はわたしを遣わされた方を見るのである>(新共同訳)と記しているのであります。

 

ヨハネ福音書のイエスは、<言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた>(1:14)と言われているように、「受肉した神」なのです。

 

46節には、<わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た>(新共同訳)と記されています。イエスを信じるということは、その光を信じるということと別のことではありません。この世の光であるイエスについては、前回の説教でも触れましたので、そちらを参照ください。

 

そのように言った上で、イエスは、それでもなお彼を信じようとしない不信仰について、47,48節で語られます。彼は先ず47節で、<わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである>(新共同訳)と言われます。彼は、彼自身が徹頭徹尾救い主であって、それ以外の方ではないと言われるのです。彼の意志は人間を救うことであって、それ以外のものではありません。しかし48節に言われているように、<わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終りの日にその者を裁く>(新共同訳)。すなわち、イエスの意志が徹頭徹尾救い以外のものでなくても、相手がその救いの言葉を受け入れない場合には、その救いの言葉は、相手にとって裁きの言葉にならざるをえません。すでに3:18に言われていたように、<信じない者は既に裁かれている>(新共同訳)のです。

 

エスは、<人が友のために命を捨てること、それよりも大きな愛はない>と言われました。そして、<あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるため、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである>(マルコ10:42-45)ともおっしゃっています。わたしたち人間すべてを救うためにこの世に来られたイエスのこの言葉を受け入れないで、私たちが偉さを競い合っているとすれば、私たちは弱肉強食の中で、互いに奪い合い、互いに傷つけ合い、殺し合っていく以外にありません。現実の私たちの世界はそのような方向に加速しているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の著者は、そのような世を闇の世と言っているのだと思います。そして、それは人間の不信がもたらす現実だと、言っているのです。

 

最後の49,50節では、イエスは、彼自身の言葉の持つ特別な重みについて語られます。すなわち、<なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである」>(新共同訳)。ここでは、イエスの言葉は、他の人々の言葉とは全く違って、彼を遣わされた父なる神自身によって命ぜられた言葉であること。私たちはイエスの言葉において、父なる神自身の言葉を聞くのだということ。私たちはイエスにおいて、「永遠の命」である命令に出会うのだということ。したがってそれを拒むのは死を意味すること。そのようなことが語られます。――それで12章は終わることになります(井上良雄)。

 

すなわち、このイエスの活動のすべての締めくくりでもあるこのヨハネ福音書のこの個所は、私たち読者に一つの単純な二者択一を迫っている言葉として読むことができます。すなわち、イエスを神の言葉の受肉として信じるか、信じないかです。第四福音書記者はこの決断からの逃げ道を与えません。信じることは生命であり、イエスを拒絶することは裁きを招くと語っているのです。

 

この二者択一への迫りは、ヨハネ福音書で繰り返されているメッセージでもあります。先程3章18節を引用しましたが、3章16節の有名な<神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された>という言葉で始まる箇所もそうです。少し長くなりますがその箇所も読んでみたいと思います。<神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行ないが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行なう者は皆、光を憎み、その行ないが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行なう者は光の方に来る。その行ないが神に導かれたということが、明らかになるためである>(3:17-21,新共同訳)。

 

もしこの二者択一の下で、私たちが光である、神が受肉した人間イエスを信じて歩みを起こす者であるとすれば、闇の共犯者になることはあり得ません。先日帰天されたNさんが、今日の船越通信の中にも記しておきましたが、「ローマ帝国の権力が関わって作られたキリスト教はずっと戦争や植民地時代、ヒットラー、トランプ、プーチン他々から離れられず、イエス聖霊とは違うと思います」と言っていますように、キリスト教には、イエスの生きざまとは真逆の権力を志向し、闇の世界と共存してきた歴史があり、現在でもそのような宗教としてのキリスト教が存在しているのも事実です。しかもそのキリスト教と一体化したような教会も、プーチンを支持するロシア正教のような形で存在しています。かつて私たちが属する日本基督教団という教会が、当時の日本の天皇制国家に組み込まれて、戦争協力をしたのも、同じです。土井昭夫さんが、現在の教会は資本制社会に組み込まれているのではないか、もしそうであるとすれば、ある意味で戦時下の日本の天皇制国家に組み込まれてしまった当時の教会と同じ誤りを犯していることになるのではないかという主旨のことを書いている文章を読んだことがあります。

 

私も、聖餐式の問題で、ひとつの問いを公にしています。『福音と世界』に聖餐式のことを書いた文章の中で、日本基督教団にあって聖餐の問題は、洗礼を受けていない人でも希望すれば誰でも与かることのできる、いわゆる「開かれた聖餐」か、洗礼者だけに「閉じられた聖餐」か、という問題よりも、戦時下の教会が行っていた聖餐式と現在の教会が行っている聖餐式がどう違うかの方が、より重要の問題ではないかということを書いています。しかし、この私の問いに応答した方は、未だ誰もいません。船越教会は聖餐式の礼拝式文に明らかなように、私の問いに応答しています。戦時下の教会の戦争協力を反省する文章が船越教会の礼拝式文にはあるからです。

 

私は、教会はイエスを信じて歩みを起こす者の交わり、コイノーニアだと思っています。

このように日曜日ごとに集まって礼拝をするのも、コイノーニアとしての教会の行為だと思っています。日常性の中に埋没し勝ちな弱さを抱えた私たちが、日曜日ごとに集まって礼拝を共にし、聖書を共に読み、祈り、イエスの使信を与えられて、また散らされて、自分の与えられた場で一週間を生きる、その繰り返しに意味があると思っています。

 

それでもNさんのキリスト教批判は私の中にもあります。また、「笑われるかも知れませんが、私は、イエスキリスト教の隔てを取り除いて生まれた人すべてに聖霊を送られることを、全ての宗教もと思うようになりました」というNさんと同じ思いが、私の中にもあります。

 

私たちは、世の光であるイエスを信じて歩みを起こしていきたいと思います。そして同じ光をめざして生きようとしている人々と共に、どんなに闇が深まろうとも、全ての人が闇の支配から解放されることをめざして、命与えられている限り、歩み続けていきたいと願います。

 

主が私たち一人ひとりを、光であるイエスへと導いてくださいますように!

 

祈ります。                     

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 「暗闇に住む民は大きな光を見/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタイ4:16)。神さま、私たちは、世の光であるイエスに従って光を求めて生きていきたいと願っています。どうか私たちにその力を与えて下さいますように。闇の世で苦しむ人々にどうか光を与えてください。
  • 神さま、今世界で行われている戦争が、特にガザへのイスラエルの攻撃が一刻も早く停止しますように。私たちにその力をお与えください。戦争への準備を進めているかに思える私たちの国を糾し、平和を造り出す国としてください。
  • 原発事故や気候危機で苦しむ方々を助けてください。また、災害や病気で苦しむ人々を支えて下さり、その一人一人に希望をお与えください。
  • 他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌    289(みどりもふかき)

https://www.youtube.com/watch?v=JaBWsTs8GTc

⑮ 献  金 

⑯ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑰ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑱ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。