なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

貧困の克服

  先日福音書に出てくる「持ち物を売り払い、貧しい人びとに施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従ってきなさい」(マタイ19:21)というイエスの招きに応えられないで、イエスのもとを立ち去った富める青年は自分ではないかと、ずっと思ってきたという方がいらっしゃいました。
 
そして定年退職して年金生活者になったので、やっとそのこだわりから解放されたと思ったが、私が教会の機関誌に書いた湯浅誠さんの「ため」(助けてくれ人や預貯金)のある人は即路上生活者にならないで済むという記事を読んで、ああやはり自分はまだ富める青年ではないかと思ってしまったというのです。
 
私も若い時には同じような思いにさいなまれたことがありますし、日本の多くのキリスト者は同じ思いを抱いているのではないでしょうか。貧困の問題は個人倫理ではどうすることもできない社会の問題ですから、自分の持ちものを全部売り払ったからと言って、貧しい人がいなくなるわけではないのです。ですから、たとえそれができたとしても、自己満足の域を越えられません。真面目な信仰者はこういう精神的な行き詰まりにぶつかるわけです。
 
この貧困の問題は社会正義の問題としてとらえることが必要ではないかと思います。雨宮処凛は、生きづらさを自分に向けてリストカットしていた自分が、その生きづらさの原因が社会にあることに気づいて、怒りを社会に向けるようになったとき生き易くなった、と言っています。
 
 だからと言って、正義を振りかざして社会を糾弾すれば済むものでもありません。社会は目には見えませんが私たちすべての人間関係の総体です。与えられた場でかかわりを持つ身近な人との関係から変えていくことではないでしょうか。