なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

死から始まる新しい人生

今日は、以前に立教女学院高校のイースター礼拝で話したメッセージを、このブログに掲載いたします。何か感じてもらえたらうれしく思います。 
 
聖書:ヨハネによる福音書2019
【週の初めの日、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこでペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。】
 
あるギリシャの哲人の言葉に「石の心をもってしては人をよみがえらすことはできない」という言葉があります。「石の心」とは「冷たい心」ということでしょう。「あんたなんか、どうなろうと、私には関係ないわよ!」と、誰か友だちに言われたりしたら、みなさんはどういう気持ちになるでしょうか? 自分では親友だと思っていた友達が、もしそのようにいったら、何日も落ち込んで、立ち上がれないくらいの大きなダメージを受けてしまうかも知れません。「冷たい心」の人は、人が死のうがどうしようが関係ありません。むしろ自分の邪魔になる人だったら、何とかその人が自分の前からいなくなってくれたらうれし、と思うでしょう。どちらかに小さな子供がいる若い男女の夫婦が、子供が邪魔だからと虐待したり、殺してしまったという事件が起こります。
 
今日はイースターの礼拝ですが、ご存知のようにイースターの前の週は受難週です。その週の金曜日の夕方頃にイエスは十字架上で息を引き取りました。十字架というのは、ローマ帝国が自分の国に逆らう者を死刑にするときに、みんなの見せしめにするために用いた処刑の仕方です。十字の木に磔にして息絶えるまで放置しておくという、大変酷い死刑です。イエス時代のユダヤの国では、ローマへの謀叛が絶えなかったので、エルサレムの民衆は十字架の磔になった人をよく見ていたのかもしれません。イエスを十字架につけた人は、その決定権をもっていたローマの総督ピラトです。けれどもピラトにイエスを十字架につけるようにさせたのは、大祭司をはじめとするユダヤ人の権力者たちでした。彼らはイエスがいてほしくなかったのです。邪魔でした。ですから、イエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダに金貨を贈ってイエスを裏切らせたのです。イエスを亡き者とするために、彼らは何でもしました。
 
エスは、「冷たい心」の人たちによって抹殺されてしまったのです。それですべてが終わっていたら、先ほど読んでいただいたヨハネ福音書のイエスの復活の記事にでてきましたマグダラのマリアをはじめとする女たちも、イエスのお弟子さんたちもダメージを受けて再び立ち上がることさえ出来なかったことでしょう。もしそうだったら、キリスト教はこの世界に存在しなかったでしょう。キリスト教が存在しなかったら、この立教女学院という学校もなかったでしょう。
 
もう大分前になりますが、私は妻に薦められて、穂積純という人が書いた二冊の本を読みました。『甦る魂』と『解き放たれる魂』という本です。両方とも高文研という出版社からでています。この人は性虐待による後遺症を理由に日本ではじめて「改氏名」を獲得した人です。小さいときから実兄から性虐待を受けて、何かの機会に、例えば転居して住民票を転居先に移すようなときに、必ずその書類に氏名を書かなければなりません。その時に必ず実兄から受けた性虐待を強く思い出してしまうというのです。弁護士を通して裁判所に訴えて、「改氏名」が認められるのですが、その闘いはすさまじいものです。二冊目の本の最後のところに、1922年に被差別部落の人々が出した水平社宣言にある、「我々穢たであることを誇りうる時がきた」という言葉を引用して、「私たちが苦しみを生き抜いてきた人間であることを誇りにする時がきた」と書いています。そして「湖の風に吹かれて」という詩を最後に記しています。
 
「空よ、水よ、風よ私はこの道を 行こうゆるやかに 心の望むまま分かち合い癒し合い育ち合う この道をこれがどんな風景の道か 私は知らない/けれど もう一人の旅ではない/人と共に歩む 新しい日々だ/苦しみだけではない/喜びもある新しい冒険だ/私はもう 自分を憎まない/自分の人生を憎まない/闘い抜き/苦しみの意味さえも変えてきた自分を/私は 愛す/苦しみゆえに 分かち合うことを許され/分かち合う喜びをもつ/この人生を/いま/私は 愛す」
 
この人の本の中にはわたしのような牧師に失望したところもあって、この人はキリスト教の信者ではありません。けれども、私には、復活したイエスと出会って、新しく歩み出したマグダラのマリアや女たちのめざす道と、この穂積純さんの詩に記されている道と重なるように思えてならないのです。なにもかも、おしまいだ、というまさに死の場所から新しく始る人生を、復活したイエスは私たちすべてに与えてくださっているのではないでしょうか。