なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

人間の弱さ

  人間の弱さは人間にとって本質的なものだと思われます。この世に誕生した赤ちゃんは、全く自力では生きられません。周りの人、特に両親をはじめ保護者による支えが必要です。しかし、核家族化した現在の社会では両親や保護者の方々だけで赤ちゃんを育てるのは難しく公的支援が不可欠です。
 
同じことは高齢者にも言えます。老いていくに従って人間は弱さを露呈します。自分一人だけでは生きていくことができません。周りの人の支えが必要になります。ところが、かつてあった大家族や村や隣近所のような家族を包む様々なコミュニティーが機能不全になり、現在は国家や自治体や資本と個人や家族が直接関わらざるを得ない状況が進行しています。
 
国家や自治体による社会保障社会福祉が十分な社会で、人々も人権思想を身につけ民主的であれば、弱さを持った人も安心して生きていくことができるでしょう。そうでない社会ではサーヴィスもお金で買わなければなりません。そのような社会では、湯浅誠さんが言う「ため」(貯金や助けてくれる家族・親族・友人)があるかないかによってその人の「運命」が決まってしまいます。「ため」がなく仕事を解雇された人は即路上生活者にならざるを得ません。現在の日本社会はそういう形で進行しています。
 
 さて私たちの日本の教会は明治20年代以降中産インテリに属する人によって構成されていると言われてきました。中産インテリは「ため」のある人たちです。実際今教会に属する高齢者の方々は公的支援も受けてはいますが、経済的にも主に自分と家族に支えられて生活しています。しかし、山谷や釜ケ崎や寿では同じ高齢者の方々は社会保障社会福祉によらなければ生活できません。
 
 昨日のブログでは、貧困の問題に触れました。貧困も人間の弱さですが、競争社会が続く限り、弱肉強食によって弱者が切り捨てられていかざるを得ません。利潤追求の資本の論理に変わる経済活動はないものでしょうか。このところテレビを観ていますと、地域の活性化のいろいろな試みが紹介されることがあります。新しい農業の試みとか道の駅の試みとか、仲間や地域の人がみんなでどうしたら経済的にも収入を得て生活できるかという発想からの村おこりし、町おこしの試みです。自分達の創意工夫で経済活動も人任せにしないで考える動きが広がっていくといいですね。
 
 諸藩による江戸時代の地域経済活動の活性化のようなことが、各地域で起こる。そのために主な企業がその業種によってふさわしい地域に分散し、その地域の人びとと連携して地域経済の活性化に一役買ったらどうでしょうか。資本家に配当するのをやめて、儲けはその地域の人びとに還元していくのです。そのような人に優しい経済活動の復権によって、希望のある未来を夢見ることができるならば、若い人もお年よりも、みんな元気が出るのではないでしょうか。
 
 社会の矛盾に教会はどう取り組み、社会を変えていくのか。これも大切な教会の宣教の課題の一つではないかと、私は思っています。