なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(95)

船越通信癸坑機 。横娃隠廓2月10日        


・2月3日(日)は礼拝後和室に移り、四角に机を並べ、お互いに顔と顔が見える形で、テーマ話し合いのまとめを行いました。15名の出席者でほぼ船越教会のフルメンバーでした。初めに用意されたおにぎりをいただいてお昼をすませてから話し合いに入りました。司会は私が務めました。先ず昨年4月以降発題して下さった方々の内容の記録、「テーマ話し合い・全体の記録」(2012年12月2日)に基づいて六つのテーマに絞ったものを、船越通信癸牽供2012年12月9日)から紹介し、それに従って話し合いを進めさせてもらいました。それは以下のものです。

・_須賀平和センター宣言について、教会がイエスの福音の阻害にならない形態を模索する(教会の自己目的化への警戒、既成教会のマイナス面の克服)。「小さくされた人々」(本田哲郎)への連帯をめざす。ざ飢餔?瞭錡鐡な生活の場での証人としての生き方と教会との関係。タ仰の活性化。社会の枠組みを脱構築していく教会。

・,砲弔い討蓮現在の宣言文(“私たちは戦争責任に基づき飢餓、地球破壊、差別、軍事力、核等のあらゆる抑圧から解放され自由、人権、世界平和の実現を求めつつ、戦う民衆として前進することをここに宣言します。”)に「平等」を加える。〈戦う民衆〉という表現を〈…人権、世界平和の実現を求める民衆として前進…〉のような表現に変えるという意見が出ていました。今回、この宣言を現在の状況に合わせた表現に多少変えて、今後も船越教会のめざす目標として継承することを確認しました。なお、現在は日本語と英文になっていますが、何故英文だけか、日本語の他の言語も併記するならハングル、中国語、その他も考えられるのではないか。それなのに英文だけというのはいかがなものかという意見が出ました。この宣言文が作られた時に英文を入れた意味もあるという意見もあり、その点は役員会で宣言文原案作成グループを選んでもらい、その人たちの話し合いに基づいて、何れみんなで考えることになりました。この宣言との関連で、かつては横須賀地域の平和や人権運動を担っている市民運動の人たちが船越教会に来ていた時代もあったので、そのような市民運動の人たちとの協力関係も、できれば作っていけるようにしたいという意見もありました。

・△砲弔い討蓮現在の船越教会は福音の阻害となるほどの教会への求心力は強くないし、人数が少人数なので、この問題は余り顕在化していない。ただ組織としての教会に潜在している自己目的化は気をつけていかなければなない。

・については、現在の船越教会ではシャワーの会(路上生活者のパトロール)が具体的にこの課題を担っている。かつは路上生活者が教会に来て、シャワーを使ったり、食事を共にするということがあり、教会の人との関わりも多少あったが、今はパトロールの形なので、路上生活者と教会との関わりは間接的である。川崎の桜本教会のように日曜日炊き出しがあり、ホームレスの人たちも礼拝を共にするという、「どのような人も排除しないインクルーシブ(様々なニーズのある人々を包み込み、支え合う)教会」をめざしているところもある。今の船越教会はメンバーが少人数の上それぞれの生活の場が広域であり、教会の場所的な限界もあるが、〈「小さくされた人々」(本田哲郎)人々への連帯〉をめざすという方向性は大切にしたい。

・い砲弔い討蓮▲瓮鵐弌爾梁燭は自分の日常的な生活の場での課題をもって生きていて、礼拝によって信仰的なエネルギーを得て、自分の日常に出て行くという礼拝と生活(日常的な証しの場)の往還を実践しているように思われます。この点はイ箸盍慙△靴泙垢、今回礼拝説教について、一方的な語りかけで終わるのではなく、説教についての感想や質問を言える時を、月一回は持つことにしようということになりました。また、今までの礼拝後の懇談での自由な話し合いは、少人数だからできる船越教会の交わりの場なので、今後も続けていきたいという意見もありました。

・イ砲弔い討蓮一人一人の信仰の活性化と共に教会の活性化という課題も含まれています。その点では、地域に住む船越教会のメンバーが少ないので、地域に働きかけて教会に地域の人に来てもらわなければならないのではないかという意見がありました。そのためには、講演会や音楽会、バザーや、サクランボが実ったときには、サクランボ狩りを地域の人に呼びかけてしたらどうかという具体的な提案も出ました。(なお、この話し合いの後の役員会で、私から、ビデオを観る会なども、地域の人と共有したいテーマ[原発とか基地とか]のビデオを何回か連続して企画し、地域の人にも呼びかけて行うということも考えられるのではないかという意見を申し上げました)。まず教会に来てもらって、聖書とイエスに出会ってもらいたい。そういう意味では人を選ばす、誰でも来てもらう努力が必要である。他方、既成の教会に躓いた人が船越教会なら来たいという教会にしていきたいという意見もあります。これはどちらか一方に絞るということではなく、身に余ることをして負担になることは避けながら、出来ることをしていくことではないかということで落ち着きました。

・△硫歛蠅鮃猟蠹、積極的に言い換えたものと考えてよいと思いますが、Δ砲弔い討蓮⇒召袁辰傾腓錣譴泙擦鵑任靴拭聖書の使信である「イエスの福音、神の国の福音」は、この社会の政治・経済・文化の枠組みという縛りから私たちが解放されて、神の前に人と人とが分かち合い、共に生きていいく、「自立と共生(連帯)」への招きではないかと思うのです。伝統的なキリスト教の言葉で言えば、「自由と愛」(キリストにある自由と互いに愛し合うこと)への招きです。そういう点で、教会が小さな集団としてこの社会の枠組みの中に埋没して、自己拡張をめざすのは、聖書の使信によって立つ教会ではないと思うのです。

・以上、私なりにテーマ話し合いのまとめでの皆さんの発言を整理しました。この方向で今後の船越教会の宣教の歩みを積み上げていきたいと思います。