なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(165)

 今日は「父北村雨垂とその作品(165)」を掲載します。
 
             父北村雨垂とその作品(165)
  
  原稿日記「四季・第一號」から(その3)

 かつて駒澤大学の学長であった禅者釈宗源師は西洋哲学に於いての有する命題である実在を平等に、現

象を差別とする仏教語と同様な意味と断じているが、私には何か抵抗を感ぜざるを得ない。

 「実在即平等、現象即差別」。私には仏教の命題には意味の「先走り」の感が与えられる様に想われて

ならないのである。仏教その中でも殊に禅者の心境に斯うした精神の行動がこの二つの語に限らず在る様

に感得するのは、私の異常な意識とでも云うのであらうか。唯私にはそこに哲学と禅学とに一線を画す何

かを考えるものである。哲学に於ける論理とその純粋理論を拒否する禅の実践を必至とする禅学の論理と

の相異と観られないこともないと云う。そのことも考えさせられる今日の心境でもある。

                              1982年(昭和57年)10月10日

 現象は結果ではなく、例えば峠の様な構造を持っているものであり、それが進んで麓へ降る場合もあ

り、亦戻ってその麓へ帰るいわゆる下降もある。亦そのまま結果の様に峠に居を構えて居据わることもあ

る ― のではなく有り得ると云うことである。但し、これは云うところの思考であってもそれは現象本

来の性格であるとも云える。現象は依然現象として空間とその表裏一体となっている時間の援護のもとに

移動する構造を内包している。それは多様なる環境によること自体が空間時間の働きに即応する現象の自

律とも考えることも出来ぬ訳でも無いかも知れぬ。但し、これは再思再考すべく軽々しくこのまま発表す

る訳にはゆかない。

                              1982年(昭和57年)10月15日

 釈宗源師は西洋哲学に於ける命題「実在」を仏に於いては「平等」と云ひ、「現象」を「差別」とす

る。即ち同じ状態を西では実在とし東では平等とする。西で現象と観るものを東では差別と思考する。一

寸何か抵抗を感ずるのであるが、西のそれはそれ自体を客観しての表現であり、東のそれは客観なる意識

から主観えといわば無空間的時間的時間を通した意識の働きによる禅者の特異なる思考と私は定義する。

 註:ここで無空間的時間的時間なる言表は私の独自な表現であって、かつての述言の直感が客観から主

観へと働く意識の働きを時間的に思考したときの言表である。禅でよく使用する表現なる「電閃光」「撃

石火」を同視して差支えない。雨垂

 禅者の哲学が智より行即ち理性の純粋性を疎外した実践即ち業を主眼とする立場がこの様な段階的感情

を誘引するのではないだろうか。

                     (10月5日のものを修正を兼ねて転写した)
                     
                           1982年(昭和57年)10月20日
    
 曹山が雲厳を辞して偶然河を渉るとき、その水の流れの中に自己の姿を見て、即ち「瓦礫も佛を語る」

ことを識り、即ち流れる水の中に自己の姿を観て即ち「瓦礫も佛を語る」 ― この場合に換言すれば即

ち語らざるべき流水の中の自己の影が活き活きと本体の曹山に語りかける構造に接し、今一度換言すれば

現象なる水影である自己を客観しつつもあたかもフッサールに曰うところのノエシスとも考えられる「客

観する」自己をノエマ即ち自己との関係と識ることを得た禅の主題なる悟り或は覚を捉えた意識の働きが

突如として発生したと解することはあながち不自然ではなからうと考える。精しく云えば仏の声とはこの

場合の流水が写し出した自己の影から聴いた響を直観した悟境であると云える。

             (1982年(昭和57年10月17日の粗描を転写と同時に訂正したもの。)
      
                           1982年(昭和57年)10月20日