なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(176)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(176)」復刻版を掲載します。 

 下記のものは10年前の通信ですが、その中に沖縄宮古伝道所のH牧師のことが記されています。H牧師

は、去年2012年12月31日に帰天されました。私も以前に一、二度お話を伺いましたが、言葉数が少なく、

語られる一言一言が重いお話をされる方でした。   



       黙想と祈りの夕べ通信(176-19]2003.2.9発行)復刻版

 昨日の寿地区センター講演会「子どもと野宿者が出会うために~弱者いじめの連鎖を断つ~」(講師:

北村年子さん)に参加して、改めて一人の人の世界の深さについて考えさせられました。以前話したこと

がありますが、一人の人の経験を言葉にしたら、誰もが何冊もの本を出せるほどではないかと思います。

何冊どころかではないでしょう。それほど一人の人の中には、沢山の経験と思いが詰まっているように思

います。そして各人はそのような自分の中にあるものを対象化せずに、マグマのようなものとして抱えて

いるのかも知れません。講師のルポライター北村年子さんが関わった、かつて道頓堀におじさんを投げ込

んで殺してしまった青年ゼロ君の心のうちにも沢山のものが詰まっていました。北村年子さんはゼロ君を

追って、彼の心の中のものを言葉化しようとして、一冊の本を出しました。それが『ホームレス襲撃事件

~弱者いじめの連鎖を断つ』です。も北村氏さんのような人がいなかったら、ゼロ君の心の中にある闇は

切開されることなく、表層的な事件の報道と批評で終わってしまったのではないでしょうか。そんなこと

を思いながら、改めて一人の人の中にあるものの大きさ、深さについて考えさせられました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から発言がありました。昨夜青年会があり、6人ほど集まった。神

奈川教区のヤスクニ・天皇制問題小委員会で出したリーフレット「首相の指す国参拝、何が問題?」を紹

介して、自分と国家との関係について話し合った。驚いたことには、自分にとってアイデンティティーは

ないと言う人がほとんどだった。アイデンティティーを問題にする場合、「日本人」という答えがよく出

るのだが、一人も日本人であると答えないことにびっくりした。人間のアイデンティティーは、変えられ

ないものと変えられるものの人格が一人一人にあるが、常に新しい出会いの中で今の自分を固守すべきで

ないと思う。そういう自分がどこから来ているかは、人と人との関係の中で分かるものだと思う。そうい

うことを、自分より2,3年若い彼ら彼女らが分かりやすく語っていたのには驚かされ、感動させられ、

考えさせられた。

 また、別の方からの発言もありました。先週風邪で体調を崩し、今回は神奈川教区での沖縄キャラバン

を迎えての三回の集会に出席できないと思ったが、無理して鎌倉恩寵教会での集会には参加した。沖縄宮

古伝道所のH牧師と一人の信徒の方から、今までにない違った視点を与えられた。集会である方が、「合

同のとらえなおしと実質化」は、神奈川県が沖縄に次ぐ第二の米軍基地の県としてここで基地問題に取り

組むことではないかと思うと発言した。それに対してH牧師は、「ぼくは名称変更が基本だと思う。合同

を結婚にたとえられるが、1969年の合同は男の姓(日本基督教団)に女の姓(沖縄キリスト教団)が吸収

されたので、両者が新しいスタートをして関係を築いていくことが大切であると思う」とおっしゃった。

自分は実質が積み重ねられていけばよいのではないかと思っていたが、名称変更の問題が両者の関わりを

作り上げるための出発点として重要であることを知らされた。「合同のとらえなおしと実質化」の問題を

自分は去年の今頃は全く学んでもいなかったが、今年になってから少しずつ学びつつある自分、共有しつ

つある自分を感じつつある。大変ありがたい経験をさせてもらっている。「合同のとらえなおしと実質

化」の問題の話の中に入れる感謝と、対等な関係はどういうものなのかを、沖縄のことだけではなく、男

女の問題、接する一人一人との関わりも含めて考えていきたいと思っている。













「歴史の現実」(『ルターの日々のみことば』から)

 芽がはえ出で実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。   マタイ13:26

 人の力をもってしては、これらの毒麦を取り除くことも、変えることもできません。彼らは、しばしば、わたしたちよりも賢いからです。彼らはすぐ友人をつくり、自分のまわりに群集をつくり、彼らの方からいえば、麦の中に自分たちを植えてくれた悪魔、この世の君を味方にしています。
 さらに、彼らはどのようにしたら、自分の主張を誇示し、すばらしい知恵と信心深さをもっているようなふりができるかをよく知っています。このようにして彼らは群集の中に大きな尊敬を獲得します。それはちょうど、麦の中の大きな美しいあざみが褐色の冠をもって立ち、麦よりも高く成育し、よりりっぱに見えるのと同じです。あざみはりっぱな緑色の葉をもち、美しい大きな褐色の冠をもっています。そして、奔放に成長し、花を咲かせます。赤くて、強くて、美しいのです。ところが一方、たいせつな麦はそのような美しいびっくりするようなすがたを持ちません。薄黄色をしているだけです。ですから、なにも知らない人が見れば、誓って、あざみの方が良い有用な植物であり、花であるというでしょう。
 さて、わたしたちは、これらの邪悪な者たちを消し去ることはできません。なぜなら、迷っていた幾人かが帰ってくることがしばしばあるからです。それゆえ、もしわたしたちが毒麦を全部抜いてしまおうとしても、まだ帰ってくる可能性のあるものも滅ぼす危険なしに抜きとることは不可能です。ですから、わたしたちは毒麦があることをしんぼうしなければなりません。しかし、けっして彼らがわたしたちを支配することは許しません。それはちょうど、わたしたちは完全に罪を避けることはできないけれども、それがわたしたちの主人になることを許さないのと同じです。それゆえ、わたしたちは神の戒めを実行し、主の祈りを祈って助けを求めなければなりません。

                          1546年の説教から