なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(241)復刻版

 「黙想と祈りの夕べ通信(241)」復刻版を掲載します。この記事を読んでいて、9年前の沖

辺野古でボーリング調査に反対して座り込みが始まった時のことを思い出します。今日も、国会

前では座り込みが行われます。



        黙想と祈りの夕べ通信(241[-32]2004・5.9発行)復刻版
 

 4月25日(日)の夜に、沖縄辺野古の海のボーリングが行われようとして、現地では座り込みで反対

運動をしているので、神奈川からも人を派遣したい。また、そのための費用をカンパで集めたいので、

「かながわ明日の教団を考える会」のメンバーにメールで訴えて欲しいという要請が私に寄せられまし

た。私は26日(月)から28日(水)まで出かける予定をしていましたので、25日(日)夜に「緊急

の連絡」の文章を作り、フロッピーに入れて、26日(月)に伝道師に発信してもらいました。私の旅行

中に既に1名の大学生(27日から5月1日まで)が沖縄に行き、29日から5月1日までO牧師とK牧師が行く

ことになりました。カンパは後追いの形で集めることになりました。5月1日に帰って来た3人からの現

地報告会を開こうということになり、5月4日に当教会で開きました。15名程の人が集まり、3人の報告

に耳を傾けました。

 O牧師の話:4月29日午前8時過ぎの飛行機に羽田から乗り、沖縄の那覇には11時前に着いた。沖縄のN

牧師が迎えに来てくれた。N牧師の勧めでその日の午後に行われた那覇の集会に出席した。その集会は辺

野古の海についての学者の話であった。サンゴ礁ジュゴンの生息する辺野古の海に基地を作れば、人間

であれば心臓を突き刺すに等しいと。自分が沖縄に行こうと決心した意図は、辺野古で一緒に座ることに

よって、そこでどんなことを感じるかということにあった。29日の6時過ぎに辺野古に着いた。道路は漁

師さんが歩くから邪魔しないようにとか、資材置き場に勝手に入ると不法侵入で捕まるから気をつけろと

か、現地の人の緊張感はこちらとは違うことを感じた。4月15日から座り込みを続けていると言う。4月25

日には朝5時半に防衛施設庁の人がやって来たが、帰ってもらった。座り込みの人数は防衛施設庁側でも

監視しているので、人数が少なくて手薄になると危ないということであった。辺野古のある名護では基地

を作ることに9割は賛成で、反対は1割ということであった。沖縄戦を体験しているおじい、おばあが座

っていることが力となっている。沖縄の教団の教会関係者も支援に来ている。ボーリング反対のニュース

をメディアは報道しない。TBSのキャラクターが来て取材していったというが、放映されない。すべて

が終わってから、こういうことがあったという番組用か? 座り込みにもいろいろな顔がある。ボランテ

ィアで医師、看護師が座り込みをしている人たちの健康調査に来る。野生のグラジオスを届けに来る人、

沖縄の野草について説明してくれる人、一日の終わりに音楽で励ましてくれる人など、座り込み現場には

いろいろな人たちが来る。一日目の夜は蚊で悩まされた。二日目の夜は蚊取り線香をつけた。時間が空い

た時、それとなくT牧師やEさん、N牧師に「合同問題」について聞いた。それぞれ少しずつ違いがある

が、「出会いの豊かさは将来あるかも知れないが、あなたたちは自分たちで生きていって」と、繰り返し

聞かされた。本当に出会うとすれば、辺野古の現場で出会う以外にないのではないか? 安易な期待は持

ってはならない。きちっと距離をもつことが必要である。辺野古の海に座っていると、サンゴやジュゴン

の命の叫びが聞こえる。自分の現場とは何か?が問われている。沖縄から発信されたことを聞き漏らさな

いで、きちっと応える。そこから関係の作り直しがあり得るのではないか。

 他の二人からも補足的な話があった。「合同のとらえなおしと実質化」という教団の教会の課題と共

に、この沖縄辺野古の問題は私たち自身の問題である。



     「喜びが満ちあふれるために」(『ルターによる日々のみことば』より)


 「求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろ

 う」                            ヨハネ16:24


 神のみ名が完全にあがめられるのを見るまで、喜びが完全になることはありません。しかしこのような

状態はこの世ではこず、きたるべき世においてのみ成就されます。そこでは、悲しみは全くなく、完全な

喜びだけがあります。この世では、信仰のうちに、その一部か、一滴を持つだけで、それはきたるべき喜

びのはじまめであり、試食のようなものです。そして、キリストがわたしたちをあがなってくださったこ

とと、わたしたちが主によって、すでに神の国に入れられていることの慰めにすがりついております。し

かし、わたしたちは弱くて、主に従い、主の力を求めることに遅いのです。わたしたちは従わず、信仰と

生活にきよくとどまり続けることができません。それはわたしたちが何度も何度も倒れ、悲しみと重い良

心に疲れきり、そのため、わたしたちの喜びは純潔であることができず、あるいはまた、喜びがあまりに

も少なくてほとんど感じることができないからです。

 それゆえ、このみことばは、わたしたちが最後にきよい、完全な喜びを与えられるために力と助けを求

めて祈るようにとの招きのみことばです。あなたはこの喜びをあなた自身のうちや、この世のうちに求め

てはなりません。なぜなら、それらの喜びは不潔であって、結局、死がすべてを取り去ってしまうからで

す。しかし、キリストは祈りのうちにこれを求めなさいとおっしゃいました。わたしの名によって求めな

さい。わたしはそのためにこの世にきて、あなたを招き、あなたが受けるようにとさだめた。それによっ

て、神のみ名と、み国と、みこころが全世界にあがめられ、世と、肉と、悪魔がたえず働いている反対が

妨げられ、滅ぼされるためである。

                              ヨハネ福音書十六章の講解