なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

非日常を大切に

 私たち人間にはいろいろな世界が与えられているように思われます。社会の中での私、自然の中での私、そして神の中での私です。私という人間は独りですから、社会・自然・神の世界の中で生きる私は、その時々によってどの世界との繋がりが強いかが異なるように思います。
 
現在の私自身は、社会の中での私を強く意識して生活していますし、その社会の中で生きる私たち人間が、神の世界の中で生きている私たちをどのように反映できるのかに関心があります。
 
ですから、日曜ごとの礼拝、日々聖書を読み、祈り、黙想する時には、神の世界の中にある私と私たちの在り様に思いを馳せます。その時間は、私の日々の生活の中では非日常的な時間です。日常的な時間での私は、教会のこと、辺野古に基地が作らせてはいけないというような政治・社会のこと、家族を含めた具体的な隣人としての他者のこと、何を食べようか、どんな本を読もうかという自分自身のことなどに思いを馳せながら生活しています。
 
考えて見ますと、私の生活の中では自然の中での私を感じる時間は僅かです。最近では湘南の海や青い空を眺めていた時くらいでしょうか。飼い犬のムムが先日亡くなりましたが、その1年前くらいからは散歩も行かなくなりましたので、近くの緑のある小さな公園にも行っていません。それまでは、時々ムムと散歩していました。
 
お年寄りの方をお訪ねする時に感じるのは、人は年を重ねていくに従って、ご本人の中では自然や社会の中で生きる私よりも神の中で生きる私の比重が大きくなっていくのではないかということです。
 
老いと死は単なる社会や自然の喪失ではなく、人が帰るべきところに帰る究極へのゴールなのかも知れません。死にゆく人間は、その人が意識するかしないかに拘らず、神と向かい合っているように思われるのです。
 
死を帰天と呼ぶのは、人は神から生まれ神に帰る存在であることを示しています。すべての人間の死=帰天は人間にとっての尊厳そのものではないかと、私は思っています。
 
このように社会の中での私だけではなく、多様な世界の中にある私をもっともっと豊かに感じられたら、閉塞感の強い今の社会でも、社会の中での私だけが私なのではないんだと、良い意味で居直り、何とかなるさと、気を楽にもて生きていけるのではないでしょうか。