なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

永眠者記念礼拝説教(11月6日)

「死も引き離せないもの」 ローマの信徒への手紙8章28-39節 2011年11月6日
         永眠者記念礼拝 船越教会

・今日は永眠者記念礼拝としてこの礼拝を守ります。
・今年は3月11日の東日本大震災で沢山の方々が亡くなりました。今も行方不明の方がいらっしゃ います。ご遺族の方は行方不明の身内の死者を探し続けているのではないでしょうか。
・昨年の暮れから新年にかけて私は三つの葬儀の司式をしました。その内の二つは洗礼を受けてい ない方で、ご家族の希望により私が司式をしてキリスト教式で葬儀を行いました。召された3人 の方は80歳前後の高齢の方でした。しかし、よくよく考えてみれば、私も現在69歳ですから80歳 まで生きられたとしても後10年です。帰天された3人の方々とは、それほど年齢的には離れてい ないことに改めて気づかされました。そういう自分の年齢もあるのでしょうか、今回特に「終わ り」ということを強く意識させられました。キリスト教では終わりに関する事柄は終末論と言わ れます。人間は死んだらどうなるのかという素朴な問いは、一度は誰もが抱く問いではないでし ょうか。そして仏教の地獄絵や浄土の世界に心動かされたことのある人も多いでしょう。宗教的 な終わりのイメージではなく、「千の風」のように死者との交感のイメージもあります。或いは 幼い子供を遺して帰天した父や母について、「お空の星になって、・・・ちゃんをいつも見守って いてくれるのよ」と幼子に語る場合もあるでしょう。実態としての死は、「死ねば死にきり。自 然は水際立つ。」(高村光太郎)によく言い表されていると思います(この部分は「福音と世  界」と重なります)。
・個体としての死は、どんな死であっても死んだら自然に帰るように思われます。骨となり灰とな り土に帰っていくからです。しかもその個体としての死には、どんなに親しい人でも関与できま せん。死ぬときは、人はたった独りで死んで行くのです。私には若い時に筋委縮症で4年ほど寝 た切りの生活をして死んでいった母の身近にいて、人が独りで死んでいということを痛切に感じ させられた体験があります。結婚してから連れ合いに、何かの時に「人は結局独りで死んで行く ものだ」と言いましたら、そのことで、あなたは冷たい人だと言われ、喧嘩したことがありま  す。
・個体としての人間は、たった独りで死んでいくのですが、けれども、私たちの中にいろいろな死 後の物語があるのも私たち人間の豊かさの現れではないかと思います。それは観念の物語であ  り、人間の想像の物語に過ぎないと言ってしまえば、それまでなのですが、そういう観念や想像 において思い描く世界に私たちが生きていることも事実なのです。キリスト教の終末論には、そ のような死後の物語というだけではなく、「終わりから生きる」という側面もあります。ヨハネ 黙示録21章1-7節の「神と人、人と人とが叫びや痛みから解放され一つの家に平和のうちに宿  る」やイザヤ書11章6-9節の「狼は小羊と共に宿り、・・・」という神の正義と真実が支配する神の 国の完成(終わり、目標)から現在を生きるということです。信仰者には天国(神の国)に行く というイメージの方が強いかもしれませんが、「終わりから生きる」信仰を忘れてはならないと 思います(この部分も「福音と世界」と重なります)。
・けれどもまた、同時に、私たちは「終わりから生きる」と共に「終わりをめざして生きる」者  でもあります。
・先ほどお読みしましたローマの信徒への手紙の少し前のところに、「うめき」ということが語ら れています。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないう めきをもって執り成してくださる」(26節)とあります。霊とは神ご自身と考えてよいわけです から、ここでは、私たち人間のために神ご自身がうめきながら執り成してくださるというのであ ります。神がうめくというと、神か弱々しく思われるかもしれません。そしてそんなうめくよう な神など信じて何になるのかとう風に思われる方もあるかもしれません。
・さらにその前には、この「うめく」という言葉が2回使われています。そこにはこう記されてい ます。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わた したちは知っています」(22節)。つまり、この世界全体、人間も動物も自然も「うめき」なが ら産みの苦しみをしているというのです。女の方で子どもさんを出産された方は、その出産の苦 しみを体験されていますから、この表現の感じをからだで理解できるでしょう。新しい命を生む ために苦しむ妊婦の苦しみを想い起こしてみると、世界全体が新しい命に生まれ変わる、その過 程で、陣痛のようにうめき苦しんでいるというのです。国と国、民族と民族の戦争が繰り返し行 われたり、人間の豊かさの追求のあまり自然や生態系の破壊によって、この神によって造られた 世界が傷つき、苦しんでいる現代の世界を思いますとき、新しくそのような破壊の無い平和な世 界に生まれ変わるために、産みの苦しみを続けているという比喩は、決して荒唐無稽なことでは ないでしょう。
・そしてさらに、この自然世界のうめきに続いて、「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいてい るわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待 ち望んでいる」(23節)というのです。ここで「霊の初穂をいただいているわたしたち」と言わ れていますのは、イエス・キリストを信じる信仰者のことです。ですから、この神に造られた自 然世界も信仰者もうめきながら、新しいまことの世界と人間に完全に変えられることを求めて、 この破壊に満ちた世界と悪を内にかかえている私たちの中で、うめき苦しみながら、新しい真の 世界と人間へと変えられることを待ち望んでいる人々のために、神ご自身も共鳴してくださり、 共にうめきながら一緒に苦しんで、執り成してくださるというのが、先ほどの神のうめきです。
・わたしたちと共にうめく神は、高見からこの世俗の世界に生きる私たちを見下ろす方ではなく、 私たちと同じ地平に立って共にいてくださるとともに、そのような私たちのうめきに共感してく ださり、新しくなるその希望を確かなものにしてくださる方なのであります。
・これは終末を望み、終末をめざして生きる者の信仰です。そのような信仰者について、パウロは 「神は愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に 働くということを、私たちは知っています」(28節)と言うのです。
・うめく神は、私たちと同じ現実に立ちたもう方でありますが、同時に、私たちのいるところか  ら、私たちを連れ出し、神のみ心にふさわしい形に変えてくださる方であるというのです。さら に、と繰り返されているところに、そのような一つのところにとどまるのではなく、前進させて くださる神の導きを感じていることが分かります。そして神がそのように私たちの味方であり、 私たちのためにありとあらゆる労苦と犠牲を、惜しまずに、私たちをとらえ、愛したもうとする ならば、私たちは何物も恐れる必要がないと言えるのです。たとえ死においてもと、この聖書は 語りかけているのです。
・「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のもの も、力あるものも、高いものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キ リスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」  (38,39節)。
・神を信じる者は、この神の愛の勝利を信じているのであります。そしてその神の愛が勝利した神 の国を確信し、そこに私たちが最終的には迎えられる者となることを信じているのであります。 ですから、既に洗礼を受けることによって、古き自分に死にキリストにあって新しい人間として 神に向かって生きる者となっているキリスト者は、個体の死は、神の終わり、目標、完成をめざ して生きる道の、その途上、一里塚に過ぎません。
・そういう意味で、どんな力も、「わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛か  ら、わたしたちを引き離すことはできない」と言われていることに、私は希望と慰めを与えられ るものであります。
・既に召された方々は、この何物によっても、つまり死によってさえも引き離し得ない神の愛にと らえられていることを信じます。その神の愛によって、今神の平和のうちにあること、そして何 れ終わりの時にキリストと同じ姿に変えられ、復活の命にあずかることを信じます。
・地上にあって今なおこの人生を歩んでいる私たちも、何ものによっても引き離し得ない神の愛に とらえられていることを信じます。その意味で、私たち天上にある者も地上にある者も、この何 ものによっても引き離し得ない神の愛によって一つとされているのです。天と地とその住み家は 異なりますが、共に終わりをめざいして歩んでいることにおいては一つなのです。
・そのような思いと信仰をもって、今年の永眠者記念礼拝を共にしたいと願います。
・残されたご遺族の方々に、神の慰めと励ましが与えられますように。