なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(30)

船越通信癸械亜  。横娃隠映11月13日     

・11月6日は永眠者記念礼拝でした。礼拝堂に船越教会との関わりの中で帰天された方々の写真が置かれ、ご遺族の方もお二人が礼拝に出席しました。私は説教で死者も生者も天と地と住み家は異にしていますが、共に神の大きな愛のみ手の中で終末(終わりであり完成・目標)をめざして歩んでいるといことを強調しました。礼拝後お二人のご遺族の方から一言ずつご挨拶がありました。お一人は神戸の会社に単身赴任されていますし、もう一人の方はホームにいらっしゃるお連れ合いのお世話があり、教会からの集会案内をいただきながら出席できないでいることを気にされていました。礼拝後ご遺族の方を囲んで昼食会をもちました。食事をしながら歓談の時を共にしました。

・教会によっては会員名簿の中に帰天者を入れているところもあったり、私が神学校を出て最初に牧師として働いた教会では、若い教会で帰天されていた方が数名でしたので、その方々の写真が小さな礼拝堂の後ろに何時も置かれていました。ですから毎日曜日の礼拝にも帰天者が共に出席しているように思われました。現に生きている者と既に死んだ者との関わりは、仏教的な法事の時のみの関わりではなく、日常的なものではないかと私には思われます。戦争によって死んでいった方々、災害や事故によって死んでいった方々は、自然死というよりも強制された死を死んでいったわけです。自死の方もある意味で同じでしょう。そいう場合、特に生きている者は死者から問われているように思えてなりません。その死者からの問いかけを生きている者は真摯に受け止めて、それにどう応えて生きて行くかという課題が、生きている者には与えられているのではないでしょうか。沖縄戦での死者、アジアでの日本の軍隊によって殺された膨大な死者たち、また戦死した日本の兵士たち、ヒロシマナガサキの原爆による犠牲者、戦災による死者たち、今度の東日本大震災で大津波に巻き込まれて死んでいった方々のような災害による死者たち、何と多くの死者たちが、今生きている私たちをじっと見ていることでしょうか。ヘブライ人への手紙では、信仰の先達は天にある証人であると言われています。私たちを問う存在というよりも、天にある証人は、天にあって神と共に私たちを見守っている存在として思い描かれているように思われます。このように死者との交感は生きる者にとっての豊かさの一つではないかと、私は思っています。

・11月7日には、私の戒規免職問題で訴訟対策委員会が紅葉坂教会であり、私の教団への「公開状」に対する石橋議長の回答を検討した結果、裁判に踏み出すことになりました。最終的な訴状を検討し、後は弁護士に提訴の準備をしていただくことになりました。11月中には提訴することになりました。11月9日には裁判支援の事務局で裁判支援のお願いの発送作業を行いました。事務局長のKさんを中心に9名の方々で約1200通のメール便を発送することができました。途中支援会の住所の変更を余儀なくされるというハプニングも起きましたが、何とか夕方までに作業を終えることが出来ました。12月3日(土)午後1時30分から4時まで紅葉坂教会にて支援会の発足集会を行うことになりました。時間の御都合の着く方は出席していただければ幸いです。多くの方々に支えられて裁判を意味あるものにしていきたいと願っています。戒規免職処分の撤回と現在の教団の強権的な体質を問うことができればと思っています。

・神奈川教区の社会委員会から派遣されて奥羽教区新生釜石教会に7人のボランティアが11月6日夜から10日夜までの期間で行ってきました。私の連れ合いとTさんがボランティアの一員として参加しました。何かの機会に報告を聞くことができればと思っています。

・11月6日の永眠者記念礼拝での私の説教は、ローマの信徒への手紙8章28~39節をテキストにして「死も引き離せないもの」と題して聖書の言葉を取り次ぎました。私は、まず3月11日の東日本大震災の大津波による死者の中に今も行方不明の方々がいることに触れました。残された遺族の方々の中には遺体を探し続けている人もいるでしょう。そういう震災の現実を踏まえて、「死ねば死に切り、自然は水際立つ」という高村光太郎の言葉が実態としての人間の死をよく言い当てているように思われます。個体としての死は、その肉体が土に帰ります。それが自然です。そして人は独りで死んでいきます。死にゆく人に他者は寄り添うことはできますが、死ぬ時は独りで死んでいかざるを得ません。そこには他者は関与できません。しかし、死については仏教の浄土への信仰のような観念というか想像の世界というか、そのようなものが伴います。聖書にもあります。パウロは、神の愛から人間を引き離す何ものもないと明言しています。以前私は、神の愛の目標・完成としての終末への信仰から今を生きるということを「福音と世界」に書きました。信仰者は、そのような終末から生きる者であると同時に、終末への途上を生きる者でもあります。ローマの信徒への手紙の今日の個所の前に、「うめく」という言葉が3回出てきます。最初は神に造られた被造物としてのこの自然界が、「すべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(ローマ8:22)と言われています。さらに信仰者であるわたしたちも、「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(8:23)と。そして、「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(8:26)と。つまり自然界も人間も神も、神のみ心が充満する世界が現れることを期待して、うめきながらこの現在の途上の生活を過ごしているというのです。万事を益として下さる方の、死によっても引き離し得ない愛に捉えられた者として。その神の愛への確信をもって、天にある者も地にある者も終末への途上を生きているのです。