なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

小さな共同体

  先日ある集会での参加者の一つの発言が私の心を捕らえました。その発言とは、 「教会では生活過程を共有しているわけではない」というものです。言われて見れば、全くその通りです。事実私たちは、日曜礼拝を共にするだけで、家族とか家族のようなお付き合いをしている一部の人以外は、全くと言ってよいほど礼拝を共にしている他者との日常的な交わりはありません。従って、日常的にどんな生活をしているのか、教会員についてもお互い同士殆ど知らないわけです。これが大都市にある教会の典型的な姿なのでしょう。
 
 しばらく前の話ですが、年長者の集会があり、送迎の希望を問うたところ、数名から車での送迎の希望がありました。私は免許を持たず車の運転はできません。当時の伝道師と退職したばかりの信徒の方に車の運転をお願いしました。たまたま教会から比較的近い方からの希望でしたから出来ましたが、2時間も3時間もかかる方ですと、実際には難しいと思います。ですから最初から遠慮される方もいらっしゃるのではないでしょうか。年長者だけでなくいろいろな弱さを抱えている者には、他者の支援が必要です。現状では多くの場合、どうしても生活過程を共有している肉親という絆による家族にその支援の期待がかけられます。しかし、現在家族もその働きを担えるほど安定しているとは言えません。
 
 そういう支援をすべて公的支援に頼るのか(そのためには支援体制の充実が求められます)、お金で買うようになるのか、それとも第3の道があるのでしょうか。先日テレビを観ていましたら、友達家族のような気の合った赤の他人同士による共同生活をしている人たちのことが紹介されていました。
 
 さて、70年代南米の教会から解放の神学が発信されました。そしてその頃から南米では基礎共同体と言われる少数の信仰者による共同体が生まれ、現在もその基礎共同体は脈々と続いていると言われます。この基礎共同体に参加している人々は日常的に生活過程を共有しているのでしょう。多分この基礎共同体では相互の支援体制が共同体としてできているのではないでしょうか。南米の基礎共同体がどのようなものであるのか、詳しくはわかりませんが、血縁による関係でもなく、地縁による関係でもなく、個人の主体的な決断による参加でつくられる小さな共同体による支援の相互性が生まれていくのは、望ましいことのではないでしょうか。そのような小さな共同体があちこちに生まれるようにと、私は密かに期待しています。