なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

神の国の社会

 神の国の社会がもし本当にあるとしたら、この世の現実社会とどこが根本的に違うのでしょうか。
 
以前に教区の社会福祉小委員会主催で開かれました「障がい者と教会の集い」に出席して、その集いで発題された心苦しむ方々の発言をお聞きしながら、私は改めて神の国の社会について考えさせられました。また大分前に寿地区センターの講演会で北海道の心病む人たちのコミュニティー浦河べてるの家の実践について、当時その中にある伝道所で牧師をしていました浜田さんから伺ったことがあります。そのことを思い出しました。
 
一言で言えば、誰を基準にその社会が形成されているかです。浦川べてるの家では心苦しむ人がありのままで生活できる場所がめざされています。ですから、そのべてるの家の社会では誰が基準とされているかと言えば、最も重い苦しみを負った人になると思われます。そのためには、人間の強さが返って障害になります。それぞれの弱さを出し合い、分かち合い、支え合うことによって共に生きる共同体でなければ、最も重い苦しみを負う人を排除しないで共に生きることは出来ません。
 
そういう社会では、競争原理を認めてなりたっている現在の日本の学校で教育された人は、生まれ変わらなければその社会の一員になることはできないでしょう。
 
最も弱い人、最も苦しんでいる人、最も小さい人が中心に形成される社会が神の国の社会であるとしたら、現在の私たちの教会はどうでしょうか。私たちの教会は、現代日本社会では存在しても、神の国の社会では存在しないとうことになりはしないでしょうか。もしそうなったら悲しいですね。