なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

しかし、今や

 「しかし今や」(口語訳、新共同訳では「ところが今や」)、これはローマの信徒への手紙3章21節の冒頭の言葉です。
 
ルカによる福音書のイエスは「時の中心」(コンツエルマン)と言われますが、パウロがローマの信徒の手紙で描くキリスト(イエス)も時の中心のように思われます。人間の歴史は過去がイエスにおいて集約してそこで一度終わり、イエスから全く新しい歴史が始まるというのです。罪と死の人類史が一度決定的にイエスにおいて終わり、イエスによって救済された人間の歴史が新たに始まり、その完成は終末ということでしょうか。私たちの現在は、既にイエスによって終った過去の罪と死の人類史の影響下にありながら、イエスによって救済された新たな人間の歴史にあるというのです。
 
 私はこの頃この「しかし今や」という感じを以前よりも強く持つようになりました。段々年を重ねて、何をやってもダメという諦めの境地に近づいたのか、人生の終わりが実感できるようなって、一日が貴重に思えるようになり、時間の一回性に敏感になってきたからか、よく分かりません。ただ言えることは、以前はどちらかというと過去の引きずりにどう決着をつけるかに自分の意識が向いていたように思いますが、最近は過去から未来に自分の意識の重点が移ってきたように思われます。これも単純に年のせいかも知れません。でもこの変化は自分の中での事実です。すべての人と共有する未来を追い求めて残された時間を過ごせたら本望に思います。 
 
 先週土曜日から教区総会、日曜礼拝、「沖縄から基地撤去を求め、教団合同のとらえなおしをすすめる連絡会」の第3回全国総会が日、月と横須賀でありました。また、今週の火曜日には地区牧師会があり、参加しましたので、ブログはしばらくお休みしました。またぼちぼち続けます。