なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

接着剤イエス

パウロが書いたローマの信徒への手紙14章7~8節のところにはこう記されています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きている人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。
 
聖書ではイエスが信じた神さま以外に神はいません。すべての人はイエスが信じた神のもとに平等です。イエスはその神から私たちに遣わされた大切な方です。私たちにとっては大変難しことなのですが、神と私たち人間を結びつけ、人間と人間とを結びつけ、平和と和解をもたらす接着剤のような方だからです。
 
パウロはそのようなイエスを主(キリスト)と呼んで、神と同じようにいつも私たちと共にいてくださると信じていました。そして、わたしたちは「生きるにしても、死ぬにしても、主のものです」と言っているのです。
 
この「わたしたちは生きるにしても、死ぬにしても、主のものです」と言われているローマの信徒への手紙の前後を読みますと、このパウロの信仰が「お互いに裁きあってはならない」という教えの中に出て来ることが分かります。14章1節を見ますと、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはならない」とあります。そして2節以下で、おそらくローマの教会に集まっている人々の中で起こっていた、食べ物や日のことで、お互いにあの人たちはおかしいと裁きあっていたことが問題になっています。
 
ローマの教会には、野菜だけを食べる人と、何でも食べてよいのだと考える人がいました。また、ある日を他の日よりも大事だと、特定の日を重んじる人と、すべての日は同じだと考えている人がいました。今ならそれは人の好みの問題、趣味の問題だということになるかもしれません。しかし、ローマの教会では、それぞれに、そのようにすることが神に対して忠実に生きているのだと思っていました。同じような問題がコリントやガラテヤの教会にもありましたから、これは、ローマの教会だけの問題ではなかったようです。
 
ですから、偶像に供えられた肉を食べる危険をさけるために、野菜だけを食べている人たちは、「何でも食べてよいのだ」と言って肉を食べる人たちを不信仰であると裁いていたのです。何でも食べる人たちもだまっていませんでした。野菜だけしか食べない人たちを信仰の自由を知らない「弱い人」だと言って、軽蔑したのです。どちらの人たちも自分たちは正しいと思い、お互いに相手は間違っていると言い合っていたのです。
 
パウロはこう言っています。「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け容れられたからです」(3節)。そして「主は、その人を立たせることがおできになるからです」(4節)と。
 
パウロは、自分の考えから他の人のしていることを見て、裁きあうのではなく、「神がこの人にしてくださっていることは何だろう」と私たちに見方を変えさせます。自分にだけ目を向けているとき、私たちは人を「強い、弱い」と言い合って、裁きあう落とし穴に落ちていきます。しかし、主イエスに目を向け、「神がこの人にしてくださっていることは何だろう」と思って他の人と関わる時、私たちは違っていても同じ仲間としての関係へと開かれていくことを信じていきたいと思います。