なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

人にレッテルをはらないで

 「イデオロギー」という言葉の定義はなかなか難しいのですが、私は橋爪大三郎が環境問題について書いている『「炭素会計」入門』の中でイデオロギーについてしている定義が、自分としては納得できるものだと思っています。橋爪はこう言っています。「イデオロギーとはドクマ、すなわち『正しいかどうか論証が必要なことがらを、無条件に正しいと信じさせること』である。たとえば、三位一体説。たとえば、労働価値説。キリスト教マルクス主義は、これが正しいかどうか、そもそも疑いをはさむことを許さない。人びとに同じことを考えさせ、団結をつくり出すのがイデオロギーの働きだ」(上記同書62頁)と。
 
私は沖縄の基地問題にしても、寿の日雇い労働者や野宿者の問題にしても、現在の日本の社会に生きるキリスト者としての「生き方、態度の問題」として考えていますし、またそのように言っています。無理にドグマを信じさせているわけではありません。平和の実現のためには、日本の米軍基地の問題は避けて通れません。沖縄に日本の米軍基地の多くを負担させ、今も世界中の基地でも普天間基地ほど危険な基地はないと言われている普天間基地返還の条件として、新しい基地を沖縄の辺野古に作る日米合意をして、また新たに沖縄に基地を作って負担をかけることは、どう考えてもおかしなことです。
 
キリスト者の生き方、態度の問題として、私は辺野古の新基地建設反対を表明し、ささやかですがその反対運動に参加しています。寿にも同じような理由でささやかながら関わっています。辺野古のことも寿のことも語る場合は、私は自分の生き方、態度の問題として語っています。他の人に強要するつもりはありません。
 
それぞれ自分の生き方、態度の問題として、平和問題に、障がい者問題に、差別問題に、子どもや高齢者の問題に、或いは環境問題に関わっておられる方がいらっしゃると思います。私はすべての人が辺野古や寿の問題に関わるべきだとは思っていません。ただできればその現実に目をそむけないで直視して欲しいとは思っていますが。何故なら、私たちキリスト者は「現実と聖書の往還」の中で生きていくからです。
 
 さて橋爪の定義によれば、イデオロギーは「正しいかどうか論証が必要なことがらを、無条件に正しいと信じさせること」であります。私は15年前に現在の教会に赴任し牧師に就任して、その直後の4月に行われた教会総会で挨拶を求められました。その挨拶で、総会の議案書にありました当時の宣教委員長の文章を引用しました。それは「・・・言うまでもなく、主の恵に応え、信仰を深め、信仰を継承していくことが第一義であるが、同時に今日的な問題にも敏感でなければならない。・・・恵に生かされることは感謝であるが、それがともすると、強者の奢りになり、差別体質が作られていくこともあり得る」という部分です。これを受けて私は、「なぜ信仰を深め、信仰を継承していくことが、強者の奢りとなり、差別体質が作られていくことになるのでしょうか。私は、そのような信仰の問題は、神関係を第一義とし、隣人である他者との関係を第二義として、段階的に位置付けるとことにあると見ています」と言いました。
 
この神関係を第一義に隣人である他者関係は第二義にという信仰では、神と自分という関係における神の救済・慰めが福音であると考えられます。そのような福音理解が正しい、絶対だという考え方は、実はイデオロギーとしての機能を果たしていくことになります。イデオロギーとは、橋爪に言わせれば、「正しいかどうか論証が必要なことがらを、無条件に正しいと信じさせること」だからです。自分たちの立場、福音理解・信仰理解を一方的に正しいとして、異なる考え方をする者を法によって裁き排除することに繋がります。
 
教会においても、日常の生活の場においても、相手の考え方にレッテルをはって批判するのではなく、自分はこう考えるがどうだろうかと、相互批判的にお互いの考えを出し合い、自己相対化しながら対話を通して新しい発見や視点を学び合いたいと思います。そのことを通して、現実のいろいろな問題に聖書はどういう光を投げかけているのかを模索し、お互いにより聖書の真理に肉薄していく仲間でありたいと思います。