黙想と祈りの夕べ通信(455)復刻版を掲載します。2008年6月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(455[-37]2008・6・15発行)復刻版
6月11日の水曜日夜黙想と祈りの夕べは、いつも一緒の二人が行くところがあって欠席ということでしたの
で、もしかしたら私一人ではないかと思っていました。でも、一人でも黙想をしようと決めていました。7時
少し過ぎてはじめての方がいらっしゃいました。そこで、いつものように黙想と祈りの夕べをプログラムに
従って進めました。途中の分かち合いのところで、2人でしたので、私の方から何かお話することはあります
か。キリスト教に対する質問でも何でもあったらどうぞと声をかけました。するとその方は話しはじめまし
た。自分はものみの塔で洗礼を受けているが、ものみの塔の集会に出ても感じるものがなく、信仰とは何か
を掴みたくて、自分が住んでいる所から15分くらいのところにいくつかの教団の教会があるので、そこの教
会の礼拝に出ているというのです。そう言われて私は思い出しました。そういえば一度この教会の礼拝にも
いらっしゃいませんでしたかと、私はその方にお聞きしました。すると、来たというのです。7時半頃から話
し出して、9時になりましたので、今日はこれで黙祷して終えましょうと言って、分かれました。
私はこの方とお話していて、ドグマの問題ではないかと思っていました。宗教集団の中には内に閉じる強い
力が働き、ある種の洗脳に近い状態に信者を精神的に幽閉して、批判的な力を失わせ、その教団の手足として
働かせるというものがあります。心から納得して自分が主体的にその教団の一員として関わるというのではな
く、思い込ませられて、動かされるというか、教団からの一方方向で信者はそれを受動的に受け止めればよい
とするものです。この方はそういうドグマに自分の体が違和を訴えているのかも知れません。「感じるものが
ない」という「感じる」ということは体で感じるとか、心で感じるということで、これは信仰においても大変
大事なことではないかと私は思っています。感じるということの中にはその人の志向性があって、その志向性
に触れると感じるわけです。しかし、その志向性の延長線上ではなく、全くその人の志向性に逆らう形で私た
ちの体や心の壁を破って私たちの中に入ってくるものを感じることもあります。イエスの福音はそのような衝
撃に近い出来事のように思っています。
ドグマと共にイデオロギーの問題があります。イデオロギーという語の使い方はなかなか難しく、微妙なも
のがありますが、相手の信仰や思想性をイデオロギーと言うことによって、自己正当化をはかることもあり得
ますので、他者批判に余りイデオロギーを持ち出すことは避けたいものです。例えば橋爪大三郎は『「炭素会
計」入門』の中で、イデオロギーやドグマについてこのように書いています。「イデオロギーとはドグマ、す
なわち『正しいかどうか論証が必要なことがらを、無条件に正しいと信じさせること』である。たとえば、三
位一体説。・・・・キリスト教・・・は、これが正しいかどうか、そもそも疑いをはさむことを許さない。人びとに同
じことを考えさせ、団結をつくり出すのがイデオロギーの働きだ」。私は東神大闘争で東神大教授会の神学に
よるキリスト教はイデオロギーではないかという問題意識から、東神大から追放された全共闘の学生の中で言
われるようになったキリスト教イデオロギー批判という課題に共感し、80年頃からそのことを自分のテーマの
一つにしてやってきました。ですから、橋爪大三郎のいうところの「正しいかどうか論証が必要なことがらを、
無条件に正しいと信じさせること」を、つまりドグマの信仰を自ら封印して今までやってきたつもりです。正
しさを教えるよりも、疑いの中から発見する楽しみ、イエスとの新しい出会いを共有する姿勢を大切にしてき
ました。それはこれからも変わらないと思います。
黙想と祈りの夕べにこられた方が、心の深いところで感じられる信仰に出会うことができますように。
「愛の小さな歩み」 6月8日
愛をほとんど経験したことがないとしたら、どうやって愛を選ぶことが出来るでしょうか。機会あるごとに、
愛の小さな一歩を踏み出すことで、私たちは愛を選びます。微笑み、握手、励ましの言葉、電話をかける、カ
ードを送る、抱き締める、心のこもった挨拶、助ける仕種、注意を払う一瞬、手助け、贈り物、財政的な援助、
訪問、これらのものはみな、愛に向かう小さな一歩です。
それぞれの一歩は、夜の闇の中で燃えている一本のろうそくのようなものです。それは闇を取り去ることは
できませんが、闇の中を導いてくれます。愛の小さな歩みが残されたたくさんの足跡をかえり見ると、長くて
美しい旅をしてきたことが分かります。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)