なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

躓きを超えて

教会の暦からすると、ちょっと季節外れのメーセージかも知れませんが。
 
聖書によりますと、イエスが生まれたのは、ローマ皇帝アウグストによる人口調査が行われ、ユダヤの国の人々がみな生まれ故郷の町や村に帰って登録しなければならなかったときです。その旅の途中、登録のためにイエスの父ヨセフの生まれ故郷ベツレヘムに帰っていたときに、はじめてのお産で身重になっていた母マリアは、宿屋には二人の泊まる場所がなくて、親切な宿屋の主人が貸してくれた家畜小屋で赤ちゃんを産んだのです。生まれた赤ちゃんは動物に餌を与える飼い葉おけの中に寝かせなければなりませんでした。こうして世の中の片隅でイエスさまは生まれました。そのイエスのところに天使からユダヤの民すべての救い主が生まれると知らされた羊飼いたちがやってきました。また東方の星を調べていた博士たちが光り輝く新しい星を発見し、その星に導かれてイエスのところにやってきました。イエスの誕生をお祝いしたのは羊飼いたちと博士たちだけです。東方から星に導かれてユダヤエルサレムにやってきた博士たちは、ヘロデ王ユダヤの国の王様になる子供が生まれますがどこですかと尋ねました。それを聞いたヘロデは学者に調べさせて、そういう王様の子供はベツレヘムに生まれるということを知って、後にイエスが生まれた頃の男の子をみんな殺させたというのです。イエスはそれを逃れて、ヨセフとマリアと一時エジプトへいきました。ヘロデが死んだ後ナザレに帰ってきたのです。
 
こういうイエスの誕生の物語によりますと、イエスが生まれたことを本当に喜んだのはユダヤの王様でも、お金持ちでも、ユダヤの民衆でもなく、羊飼いたちと東方の博士たちだったというのです。彼らは天使のみ告げを受けたり、星の現われによってイエスが救い主であり、新しい王様になる方だと知らされたからです。何も無くて自分からベツレヘムの家畜小屋にいったのではありません。天使や星は神からの使いです。そういう神からの使いによって知らされなかったら羊飼いたちも博士たちもイエスのところには行かなかったでしょう。
 
エスが成人して、神のお仕事をするようになって、病人を癒したり、悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出したりして、町や村を巡り歩いて、イエスの生まれ故郷ナザレの村にやってきました。ナザレの会堂でイエスが教えておられたときに、村の人々がやってきて、人々は驚き、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。・・・この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」と、イエスに躓いてしまったのです。イエスは、「『預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである』と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡はなさらなかった」というのです。
 
このように見てきますと、イエスと私たち人間との間には躓きがあって、その躓きを超えて、イエスと結びつくには、神からの示しがなければ、私たちの方からは当たり前のように近づくことはできないように思われます。パウロが言うように、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(1コリ12:3)のです。
 
エスの誕生を通して神が何をなさろうとしておられるのか、私たちには躓きに違いありませんが、その躓きを超えて、神の心と思いを受けとめる力が与えられ、イエスの後に従って一歩一歩自分の足で歩いていくと、「神われらと共にいたもう」という信仰によって新しい未来が開かれてくるのではないでしょうか。暗闇の中に光が差し込んでくるように。