なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

6月に想う

6月には沖縄慰霊の日(623日)があり、日本基督教団創立記念日624日)があります。そのことを覚えて、以下の文章をこのブログに掲載します。この文章は数年前に教会で話したものです。
 
ルカによる福音書4章16節以下の安息日におけるナザレの会堂でのイエスの物語は、イエスの福音とは何かが最もよく語られているところです。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と、イエスはイザヤの預言が今ここで実現したと語られました。
 
私は、教会はこのイエスの福音によって集められた者たちの群れだと思います。けれども、その教会がイエスの福音に反することをしてしまうことがあります。それは、イエスの福音によって集められた群れでありながら、教会がイエスの福音を忘れ去って、自分たちの思いによって立つときです。私たちが所属する日本基督教団という教会は、戦時下に「総力を挙げて戦争遂行に協力した」という過ちを犯しました。この教団の戦争協力は、明らかにこのルカ福音書のイエスの福音に反するものです。私たちの教会も戦時下主日の礼拝で「国民儀礼」を行いました。それだけではなく、当時弾圧されて閉鎖されたホーリネス教会の牧師が、当教会に出席しようとしていらっしゃったときに、その牧師の礼拝出席をお断りしたということもあります。
 
このことは、私が1995年に当教会に牧師として赴任してきたときに、既にお亡くなりになったY牧師から聞かされ、礼拝出席を断った牧師が隠退されて近くにいるので、一度訪ねていかれたらと勧められて、その牧師をお訪ねしてお話を伺いました。お話を伺うかぎり、私たちの教会が礼拝出席をお断りしたことが事実だったとしか思えませんでした。
 
戦時下の日本基督教団も私たちの教会も、「貧しい人」へのイエスの福音によって呼び集められた者の群れでありながら、自分たちを守るために国家権力を恐れ、すりより、イエスの福音をどこかに忘れ去って、自分たちの思いに立つという、集団が持つ落とし穴に落ちてしまったということではないでしょうか。この問題は、戦時下の教団の指導者や当時の当教会の牧師を責めるということではなく、今の私たち自身の問題として考えなければならない問いです。この問いの前に、イエスの福音によって呼び集められている者たちの群れとしての私たちの教会が立たされているのです。
 
6月24日は日本基督教団創立記念日です。623日は沖縄慰霊の日でした。数年前高校の日本史の教科書検定で、沖縄戦の集団自決に日本軍の強制があったとする記述が削除された問題で、検定意見の白紙撤回と削除された記述の復活を求める運動が沖縄を中心に行われていまいた。「従軍慰安婦」の問題と同じで、歴史の改竄が政府によって押し進められています。このことは、米軍再編の動きと連動し、日本の政府がアメリカと一体になって戦争の出来る国づくりに邁進していることを意味しています。
 
沖縄戦で大変な犠牲を強いられ、戦後もアメリカに占領され、無理やり基地を作られ、日本復帰後も全くその状態が変らず、今またアメリカの世界戦略の要石として、さらに基地強化が押し付けられようとしている沖縄で、私たちの仲間である沖縄の教会の人々が、反戦を掲げ、アメリカの戦争に加担させられている傷みを感じ、沖縄が平和の島へと再生するために闘っていることを思います。私たちの教会も、この沖縄の教会の闘いを覚えて、祈り、できることで繋がっていきたいと願います。