なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

赦しの厳しさ

 暫く前に教会の方を訪問し、その帰りに本屋に寄り、書棚にあった『生かされて』という本が目に入り、その本を衝動買いしました。実は既に相当数読みたいと思って買い込んでいる本があったのですが、この本を読み始めましたら、止まらずに一気に読んでしまいました。
 
この本の著者はイマキュレー・イリバギザというルワンダ生まれの女性で、現在は結婚して二人の子どもを与えられて、夫と共にニューヨークに住んでいるようです。
 
 みなさんもご存知の方が多いと思いますが、1994年にアフリカのルワンダフツ族によるツチ族の虐殺があり、100万近い人が殺されました。その後フツ族の人たちがツチ族の復讐を恐れ、ザイールに逃れ難民となっている人も相当いるということでした。私は当時それ以上に詳しいことを自分から知ろうとしませんでしたので、時の経過とともに、このルワンダの虐殺という悲惨な事件も、ほとんど私の記憶から消えかかっていました。今回この本を読んで、改めて虐殺ということがどういうことなのかということを知ったように思いました。
 
この本の著者は大学生の時にこの大虐殺に遭遇し、奇蹟的に助かった方です。この本には虐殺の社会的な原因や理由が客観的に書かれているのではなく、正に彼女の実際の体験が書かれているので、むしろ虐殺の生々しさが伝わってきます。虐殺の根底には憎しみがあり、両部族間には歴史的に虐殺の連鎖があります。彼女は小さい時からのカトリックの信者で、自分の家族もこの虐殺で殺された経験をしているのですが、憎しみを超える赦しに生きることが、虐殺の連鎖を断つ唯一の道であり、自分が奇蹟的に生かされている意味もそこにあるというのです。
 
この本を読んで、人を赦すとは何かということを改めて考えさせられました。
 
「赦す」で思い出しましたが、戦後日本の教会のある指導者がフィリピンでアジアのエキュメニカルな集会に参加した時に、その集会で聖餐式が行われたそうです。その時日本軍によって家族を虐殺されたフィリピンの女性が出席していて、日本人の参加者であるこの牧師と共に聖餐に与ることに躊躇し、そのフィリピンの女性はしばらく祈ってから、それでもイエスの十字架の赦しのゆえに、その時の聖餐式に共に与かったという話を読んだことがあります。
 
家族を虐殺で殺された相手の民族や国家に属する人を「赦す」この二つの話からしても、赦された側の人間が、この「赦し」にどう応えていったらよいのかという責任と課題が問われているように思います。
 
 神の赦しも同じでしょう。神の赦しを信じているがゆえに、「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪を赦したまえ」(主の祈り)と、私たちは祈ることができるのでしょう。