なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

解放としての老い

 私は最近2人の90代前半の方をお訪ねしました。それぞれ年を重ねることの厳しさを訴えられていました。しかし、それぞれの個性は違いますが、一日一日の生きることに対する姿勢には共通するものを感じました。それは、厳しくはあるでしょうが、前向きに与えられた日々を大切に歩む心構えがしっかりしているということです。それと関係しているのだと思いますが、お二人とも聖書をよく読んでいるということです。また「自分勝手な祈りですが」と謙遜しておっしゃっていましたが、よく祈っておられるということです。
 
私は人間には交わりの中で支えられる面と単独者として背負わなければならないその人固有の領域があるように思っています。老いや死との向かい合いには単独者としての面が大きいように思われます。聖書を読み祈るということは、そのような老いとの向かい合いの中でも、人を人として立たせてくれるものがあるのではないでしょうか。
 
私たち人間には三つの位相の違いをもった生の領域があると言われます。一つは自分と自分との関係(自己幻想)、一対一の関係(対幻想)、3人以上の共同の関係(共同幻想)です。これら全ての関係を包含する形で、信仰者には「神」との関係があるのでしょう。
 
年を重ねていくに従って、特に認知症が強くなってきますと、そのお年寄りの方の世界は対幻想と共同幻想の世界は縮減して、ほとんど自己幻想の世界で生きているように思われます。さらに年を重ねていきますと、自己幻想の世界も縮減して、すでにほとんど向こうの世界(彼岸)とこの世とが半々になっている、突き抜けた世界に浮遊しているように感じられます。
 
先日ホームに訪問した103歳の方は、耳が遠く、私が彼女の耳に口を近づけて話そうとして、彼女の顔に私の顔を近づけますと、彼女は私のほっぺにチュッと接吻しました。その振る舞いは、小鳥同士がチュッチュッと口づけをするのに近い感じがします。生物としての人間の原型とでもいったらよいのでしょうか。私は自分のほっぺに103歳の女性にチュッと接吻されて、まだ対幻想を色濃くもっている私としては気恥ずかしさを感じつつも、何か人としてのふるさとに帰ったような感じがして、嫌な感じはしませんでした。