なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(277)復刻版

 また、台風が近づいています。今年は随分多い感じです。今日は、夕方から船越教会に行き、明日の午

後予定している私の裁判支援会の発送作業の準備をすることになっています。

 「黙想と祈りの夕べ通信(277)」復刻版を掲載します。


       黙想と祈りの夕べ通信(277[-16]2005・1.16発行)復刻版


 十戒について説教で取り上げますので、十戒について書かれている本を読んでいましたら、十戒に基づ

く共同体は神の下にその構成員は対等同等であるとあり、図形で言えば、三角形(△)ではなく円(〇)

になるというのです。なるほどと思いました。三角形には頂点があり、その頂点を一番上にすると末広が

りになって底辺がきます。この図形から想像される共同体は、頂点に立つ人がいて、その人の下にその共

同体の構成員がいるように見えます。どうしても上下関係が感じられます。指導・被指導、語る・聞く、

導く・従うという一方的な関係がそこにはあるように思われます。一方円からはそのような関係を想像す

ることはできません。共同体の構成員が円周で示されるとすれば、どこにいる人でもみんな同じです。中

心からも等距離です。中心を神様ないしイエスさまとすれば、円周のどこにいても、中心である神・イエ

スとは等距離です。ある種の平等主義が貫かれていると言えます。このところを読んでいて、教会も同じ

ではないかと思わされました。私たちの教会も図形で表された場合、三角形ではなく限りなく円に近い教

会ではないかと。万人祭司ということが宗教改革の時に言われました。中世カトリック教会のローマ教皇

の首位権を否定して、神の下には全ての者が祭司であるという、みな対等同等であるというのです。これ

は大変ラディカルな考え方でした。歴史家によってはヨーロッパ世界の封建制から近世、近代への移行に

おいてルネッサンス以上に宗教改革の影響力が大きかったという見方もあるそうです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。繰り返し辺野古のことに関わるが、人との出

会いによって自分が変えられていく経験をしている。私は今まで自分が正しいと思うことによって自分で

歩むことを大切に生きてきた。ところが辺野古に関わるようになって、自分の前方から何者かに招かれ、

自分の道を自分で決めるというよりも、自然と拓かれていくのを感じている。一人の人との出会いが、ま

た新しい人との出会いに繋がり、今までの自分が変えられていくのである。辺野古の座り込みでは利害関

係のない人との出会いがある。そこで出会った人が自分の生を変えていく。Iさんという農伝の神学生が

いる。昨年4月から始まった辺野古の座り込みに神学校は留年して昨年度2回、それぞれ何週間にもわた

って行った。彼は今年度も農伝を休学して辺野古に行くことを、校長に相談したところ、校長に休学は認

められないと言われたという。今まで農伝はこのような場合休学を認めたのに、規則を楯に認めないそう

いう学校には未練がないと、自分から見切りをつけて、将来牧師になるときには独学で教団の試験を受け

ることにして、Iさんはさばさばした気持ちで3回目になるが辺野古に行った。また最近辺野古の基地反

対で船を出していた近隣に住んでいる一人の漁師の方が、辺野古のある名護市に引っ越して来て、反対運

動に取り組んでいる。辺野古の座り込みとボーリング阻止に取り組んでいる若い人の生き方が変わってい

く。国会前の座り込みに来ている人の中にも、そういう人がいる。キリストの福音に触れるということ

を、今までは頭で考えてきた面が強いが、辺野古の運動に参加してみて、頭ではなく、運動に参加する中

でキリストの福音に招かれ導かれていくように感じている。自分は昨年還暦を迎えているが、これからの

人生の結構楽しいかなと思っている。世界情勢は大変厳しいが、個として生きるところでは喜びを実感さ

せられている。キリストの福音に触れるというのは、こういうことなのかと日々思わされている今日この

頃である。